35 風渡の野 目次 37


風渡の野  36 
35.
 今夜の月は冴え冴えと明るかった。
 月光は半円の窓からななめに射しこみ、窓と同じ形を床に落とす。その光にふと目をとめ、セディムは探しものの手を休めた。
 古い書物ばかりが眠る場所にふさわしい、ひっそりとした光だ。
 城の書庫は小さな部屋がつながってできている。入れるべきものが増えるにしたがって、容れ物も増えていったというわけだ。
 レンディアの歴史そのままに長く連なる棚を離れて窓辺に立つ。村を見下ろすと、さきほどまで家々にともっていた明かりは、今は数えるほどに減っていた。
 セディムは夜のなかに目をこらした。
 起きているのは誰の家だろう。そう考えると、その声が聞こえたかのように明かりは薄れて消えた。
 ふりかえれば、城の中もしんと静まり返っていた。だが、耳に聞こえない何か――人の気配のようなものが足元から立ちのぼってくる。
 セディムの頬がゆるんだ。そんな場合ではないとはわかっていながら、静かな、奇妙な幸福感に包まれた。
 村人が大勢で城に泊まりこむなどめったにない。あるとすれば、嵐や食料のない場合ばかりだ。それなのに、温かい嬉しいような気持ちがわいてくるのはおかしなことだった。
 眼下の村、そして城の広間にいるのは、セディムにとっては家族そのものだ。すっかり静まりかえったレンディアの眠りを、長は息をひそめて見守った。
 この眠りがつづくといい。いつまでも破られることなく……。
 そう考えて、セディムは口元をひきしめ、かたわらの卓に目を落とした。
 月明かりのもとには、古びたレンディアの地図が広げられていた。まるで、雪鳩が高みから見下ろすように描かれたこの一枚が、レンディアの恃みだった。
 ――弓はとらず、アルセナ兵と話し合う。
 これはむろん成り行きまかせに決めたことではなかった。勝算はある。
 セディムはふと笑った。戦うわけでもないのにおかしなことを考えたものだ。そうしてもう一度、自国の地図を指でなぞった。
 下の畑を捨てたのは、その境の石積みが外からやってくる者を阻む最初の障壁となるからだ。石壁は人の背よりもかなり高く、上がせり出すようにつくられている。
 上から石を落とせば、登ってくる者を叩き落せる。そこへ至る山道も細い。矢を持て潜めば、迫りくる者の胸を射抜くことができるだろう――古い書物にはそう記されている。
 見慣れない、血なまぐさい言葉には寒気が走った。だが、それはレンディアに希望を与えもした。
 レンディアはたやすい獲物とはならない。戦に慣れた兵士ならば、この守りの意味もわかるはずだ。
 カデルの話では、エフタをおさえた兵士は六、七十人。レンディアをおさえるために割ける人手はその半数、よくて四十というところだろう。
 対するレンディアには、弓をひける男だけでも、その倍はいる。数の上ではこちらが優位だ。しかも、ふいを突かれたエフタとは違う。
 セディムは地図から顔をあげ、暗い窓のそとを見つめた。
(ここから立ち去れ。命が惜しければ二度と来てはならない)
 その言葉を胸のうちでくり返すと、あらためて身震いがした。
 勝算はある。だが、一方で話し合いをかならず実らせなければならない事情もある。
 守りの堅さは見せるものであって、使わねばならない事態は避けたかった。もしも、話し合いが流れれば戦となってしまう。そうなれば、狩や畑という別の問題が持ち上がる。それに、もうひとつ……。
 その時、ふいに物音がしてセディムは我にかえった。
 天井までとどく棚が奥へ奥へと続く。その向こうの暗がりの中に、手燭の光が輪を描いていた。そこに、取り落としたらしい書物を拾おうと身をかがめる少年の姿が見えた。
「セディム様……」
 そのとたん、マウロは抱えていたもう一冊も床に落とした。
「マウロ。ここで何をしている?」
「あのう……これを」
 と、少年は書物をさし出した。
 すっかり変色した古いもので、背の文字もはげかけているが、セディムにはすぐにわかった。
「年代記?」
「続きを読みたかったんです。すごく、気になって」
 だが、見下ろすセディムの目は厳しいままだった。
「ノアムは、今夜は鏃をつくると言っていたが。手伝いはどうした?」
「あの……」
 少年は細い声で答えた。「城の夜番だって言って出てきました」
「では、何故デレクといっしょに塔に居ない?」
「今日は夜番じゃないので……」
 いいかげんな言い訳は、少年の口から出たとたんに煙のように消えてしまった。
「マウロ」
 セディムはそのえり首をつかんで立たせた。マウロはじたばたもがいたが、大人の力にはかなわない。そのしおれた表情を、セディムは正面から見据えた。
「ノアムを手伝わなかったのは悪いことだ。できるはずだった鏃を奪ったと同じことだ。しかも、人をだまして、とは。忘れたか。盗むな、嘘をつくなと言うだろうが」
「……すみません」
 だが、セディムは続く言葉をうしなった。自分が口にした戒めの残りを思い出したからだ。
 ――盗むな、嘘をつくな、無闇と殺めるな。
 それは小王国で知らないものはいない、子供を叱る時や考えなしの狩をいさめる時に口にされる言葉だった。
「あの……本当に。ごめんなさい」
 つぶやくマウロはしおれた野菜のようにしょげかえっていた。セディムは手をゆるめた。
「……二度とするなよ」
「もう、しません」
 セディムはうなづきながら、少年の両肩をつかんでまっすぐ立たせてやった。だが、その表情は苦いままだった。無闇と殺めるな、などとこれからも言い続けられるのだろうか。
「セディム様」
 そんな長を、マウロは大きな黒い瞳で見上げた。


36.
「スレイと喧嘩したって、本当ですか? アルセナ人と話し合うなんて、そんなことできるんですか?」
 自分のもの思いに沈んでいたセディムは、おどろいて少年を見た。
「マウロ。スレイとは、別段仲違いなどしたわけではない」
「でも……」
 セディムは膝をつき、同じ目の高さで少年の顔をのぞきこんだ。
「心配いらない。スレイも私も、望むことはそう変わらないんだ」
 言いながら、ふと、目で笑った。「――まさか、スレイに私と同じことを考えろなどと言えまい?」
「……」
 少年の目は不安げに揺れている。幼いなりに真剣な表情を諮るうちに、セディムは気づいた。
 不安と疑問――それは、この少年だけが抱いているものではないだろう。尋ねられて、初めて気づいた。自分の口からは、村人に何の説明もしていなかったことに。
 何をするか。そのことばかりに気をとられ、黙っていても村人がついてくるような気がしていたのだ。
「スレイには、スレイにしかできないことがある」
 セディムはゆっくり言葉を紡いだ。
「彼は彼にしかできないやり方で、レンディアのことを考えてくれればいいと思っている。私も同じように、自分にできることしか出来はしないのだから」
「……」
 マウロは考え、考え込み、考えすぎてうつむいた。
「でも、どうやってアルセナ人と話すんですか?」
 これを聞くとセディムは笑って立ち上がり、
「マウロ、それはそこに書いてある」と、少年が抱きかかえた書物をしめした。
「……年代記に?」
「さっきから、それを探していた。どこへやったかと思ったら、お前が抱え込んでいたんだな。どこまで読んだ?」
「五代目の長、アルトールのところまでです」
 答えるマウロの目は急にいきいきとした。草に水をやるように、書物の話はしおれていた少年には効いた。
「アルトール……平原におりたところか」
「はい。平原におりて、町同士の争いに巻き込まれて帰れなくなってしまったところです。あの……」
 目をすがめて考えこむセディムを見ると、マウロは唾をのみ下した。「アルトールは……どうなるんですか?」
 長を見上げて、つい背伸びをした。どうやら、その決着を知りたくて書庫にもぐりこんだらしい。
「よし」
 その背を、セディムはいきおいよく叩いた。
「本当なら夜番を命じるところだが、今日は勘弁してやる。その続きを読め」
「アルトールが何をしたか、ですか?」
 セディムは首をふった。
「何を見たか、だ。そんなことがあるならば……アルセナ人とも話ができると、私は信じている」


 その同じ頃。城の小部屋のひとつでは、スレイが炉のそばに腰を下ろしていた。
 鈍い音をとぎれることなく響かせながら、ほの赤く残る炉火に木切れを照らして、一心に彫り続けていた。
 村の下手に住むスレイは、他の村人といっしょに城へ避難していた。
 隣人と一緒の部屋に寝泊りしているのだが、細工の音が夜中は響く。文句まじりの寝言に追われるように部屋を出て、作業場所を探して歩いた。結局は物置がわりの、使われていない一室へ潜り込んだのだった。
 普段から時間があれば、女の喜びそうな細々したものを彫り、毛皮といっしょにふもとの市で売っている。だが、今日の木切れは櫛や首飾りにしては大きい。近所のこどもに憧れいっぱいの目でせがまれて、つい引き受けた。木切れは昔話の少年の姿になる予定だった。
(だが何も、今でなくても)
 スレイは思わず苦笑いした。
 こんな風に、レンディア中がひっくりかえっている時でなくても良さそうなものだ。しかし、すぐに手を動かしはじめた。気晴らしが欲しくもあったのだ。
 城臣や長の決定はとてもではないが納得がいかなかった。
 兵士など剣をふるうことしか考えない奴らだ。エフタがあっというまに占領されてしまったことを聞けばわかることじゃないか。人とは思えないことをするのだ。それなのに、何故、目をつぶろうとするんだろう――。
 ふと気づくと、手の中の木彫りの顔は眉間にしわを寄せていた。
 スレイは見下ろして、ため息をもらした。これでは、子供になじられるだろう。
「忘れろ」
 そっと呟く。
 今は忘れるしかないだろう。
 スレイは別の木切れを取り上げて、今度こそ気を散らさないように彫りはじめた。


 スレイが村へ戻った朝から三日。レンディアからは毎日交替で、西の谷へと見張りが出されていた。
 見張りといっても、文字通り以上のことはしない。岩陰から兵士たちの作業を見守り、その進み具合を城へ報告する。それだけで今は十分と、城臣からつよく言い渡されていたからだ。
 橋を架ける作業は村人たちを驚き、とまどわせた。
 まず、ほそい縄蔓を張りわたし、それを基にだんだん太いものとさし替えていく。それは、小王国での橋の架け方と同じであったし、使われる道具もどこか見覚えのある形のものばかりだ。
 平原の兵士、などというと見たこともない魔物のような気がしていたのに、これではまるで同じ人間ではないか。それだのに。
 村人たちは、立ち働く兵士を複雑な思いで見ていた。
 彼らはエフタで何をしてきたのか。
 実はエフタの長も城臣たちも、とうに殺されてしまったのではないか。そんな噂もささやかれた。根も葉もないことを口にするな、とヤペルたち城臣がたしなめても効きはしない。
 兵士たちの佩く見慣れない剣が、そして見慣れた道具が、村人の不安をかきたてる。
 誰もが長を信じてはいた。だが、あんなものを持った者と、どうやって話をしようというのか。
 そして、作業の手順を知っているだけに、この後の工程も、はかどり具合も想像がつこうというものだ。黙々とはたらきつづける兵士たちを目にして、見張りの村人は顔を見合わせた。
 不安がしみ広がる間にも、谷すじに落ちる橋の影はしだいに太くなっていく。
 基の縄が固定されるのはもうじきだろう。そして、いったん土台ができてしまえば、あとはあっけないほど簡単に山道はつながってしまう。
 ――よそ者がやってくるのだ。
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