36 風渡の野 目次 38


風渡の野  37 
37.
「天幕の使者?」
 その午後、城の広間には村の男たちが集まっていた。部屋はざわめきと、汗と土の匂いでいっぱいだった。
 今は畑の畝立てや植え替えに忙しい時期だ。それをおいて集められたからには、よほど重大な話だろう、と皆が話し合っていた。
 だが、長が口にしたこの言葉には、そろって顔を見合わせてしまった。
「そりゃ、いったい何ですか?」
「聞いたこともないが……」
 村人たちの問いかけに、セディムはうなづいた。
 その彼もまた、上衣には土がついたままだ。今朝ははやくからレンディア中の畑を見回ってきたのだ。
 鍬こそ持たなかったが、段々畑の一面ごとに足をとめて土を調べた。今年、そして来年の収穫を知りたければ土に聞く。その匂いをかいで確かめる。いつもと変わらない長の姿に女や年寄りたちは何とはなしに安心したようだった。
 だが、気休めではすまないことがある。
 セディムはあらためて背筋をのばし、
「これは歴代記に書かれている平原の風習だ。」
 そう答えて、あぐらをかいて座る男たちを見渡した。
「知らないのも道理だ。めったに読むものではないからな」
 この言葉に、村人の間からは思わず笑いがこぼれた。昔から、長の書物嫌いは誰もが知っていたからだ。ヤペルは『それにしては、よく覚えていて下さった』と言いたげに苦笑している。
 麦穂のざわめきのような笑いがおさまるのを待って、長の横に座ったルタンが咳払いした。その手には古びた書物がある。
「ここには、平原の町の争いごと。そして、それが天幕の使者によって収められたことが書き残されておる」
「争いが収められた、というと……?」
 誰かのつぶやきに、セディムはそちらを見た。
「天幕の使者は、和議の使者だ」
 それは、平原のほぼ中央にあったウラという町でのできごとだった。


 その昔、レンディアの長であったアルトールは平原の暮らしぶりを見たいと考え、山を下りた。
 街道が交わるところにひらけた町ウラ。そこで、山の小国の長は願いどおり、さまざまなものを目にした。市場の喧騒、ひっきりなしに門を出入りする隊商、眠りを知らない酒場通り――。
 だが、その何よりも忘れがたいものを見た、とアルトールは記していた。

 ウラから歩いて一日半のところにカーレという町があった。隣町というにはやや遠い。その昔には、あまった干果の売り買いなどささやかな交流しかなかった。
 だが、町が大きくなり人が増えはじめると、その様子も変わりはじめた。
 人を養うために畑を広げる。しかし、どこまでがウラ、どこまでがカーレの土地なのか。水と日当たりに恵まれた一帯をめぐって口論がはじまった。町をおおう不穏な空気は、やがてはっきりとした敵意に変わった。畑の境界をめぐって二つの町の住民は対立するようになり、その只中にアルトールは居合わせたのだった。
 ある朝、ウラの大門が前触れもなく閉ざされた。
 町をめざして来た隊商がいくら叫んでも分厚い扉は開かれなかった。理由を問う声が続き、ようやく返された答えは商人たちを驚かせた。ウラはカーレと戦うのだ、という。
 ことのはじまりは旅商人の話だった。
 カーレの町が大量の矢柄を買い入れたという噂話が、酒場から町に広まった。これを聞いたウラの人々は、相手が力で事を片づけようとしているのだと考え、町を守るために門を閉ざした。商人の出入りさえ断った。アルトールもまた町から出られず、山へ帰ることができなくなった。
 カーレがそのつもりなら、と考えたウラの住人は鏃をそろえ、盾を磨いた。このことはウラに弓弦を売った商人の口からカーレに伝わり、彼らを脅かした。
 カーレの男たちは剣を求めはじめた。もしや、ウラの連中は畑だけではなく町ごと手にいれようという魂胆かと思われたのだ。あとはもう止め処ない。疑心暗鬼にかられた人々の噂話は途方もなくふくらんでいった。
 しかし、ウラもカーレも本心から争いを望んでいるわけではなかった。
 カーレの畑は水をひく作業が欠かせず、収穫まで途方もなく手がかかる。また、ウラは十日ごとの市場によって潤ってもいたから、戦によって商人の足が遠のくのはありがたくない話だ。戦は困る。だが、自分たちのものである――双方がそう信じている――権利を手放したくもない。
 互いが互いの事情を知るからこそできた決断だったかもしれない。ウラとカーレの領主は町中に触れを出させた。
 まず、家々から剣が集められ、領主の許しなく戦を始められないようにされた。矢柄は町の外に積んで、捨て置かれた。さらには、そのことが旅商人の口を通して相手方へ、それとなく伝えられた。まもなく、似たような噂が返ってきた。
 我々は争いを望んでなどいない――おぼろげながら互いの本意が見えるようになると、古い慣わしにのっとって「天幕の使者」が遣わされることになった。
 使者は話し合いのために天幕を張った。そこへ武器を持ち込むことは許されていない。彼らは言葉で戦った。 
 森や細い川によって区切られた畑をひとつひとつ数え上げる。カーレは川近くの一帯を手放すことはできないと主張した。ここがなければ他の畑へ水を通すことができないからだ。ウラもそれを認めた。
 そのかわり、ウラは今回の騒動の原因である畑を求めた。このあたりでもっとも広く、収穫の多い一帯だ。これにはカーレ側の使者も渋い顔をした。しかし、市が開かれる時にはウラの町は商人でごったがえし、人の数は普段の倍にもなる。広い畑がなければやっていけないという事情もわかる。そこで、そのかわりとして幾枚かの畑がカーレに譲りわたされた。
 主張と牽制、そして譲歩。ひとつの権利を得るかわりに、ひとつを放棄する。そのくり返しの中から、やがてウラとカーレが納得できる一本の線が浮かび上がってきた。
 その交渉の様子を、アルトールは興味深く見守り、書き残していた。

――あいまいなことは何もなかった。分けられるものは、すべて分けた。境の目印の石にさえ線が刻まれた。これらすべてが争いを避けるために、彼ら自身によって選びとられた結論だということに驚く――。

 こうして定まった境界線の上に、使者たちはもう一度天幕を張りなおした。そして、和議が成ったしるしとしてパンを割り、分け合って食べたという。


38.
「平原の人間は……そんなことをするのか」
 長い、長い話に村人たちはほう、と息をもらした。
「剣を振りまわすばかりの連中だと思っていたのに」
「天幕の使者は取り決めをかわす」
 セディムは膝の上で手をくみながら、言い継いだ。
「ここから先はこちらのものと線引きをして、レンディアの土地だとはっきり言い渡すことができる」
「しかし……そんなことを兵士が聞き入れますじゃろうか」
「それに、これはアルトールの見たこととは少し事情が違うのでは?」
「そうだな」
 セディムは穏やかにそのあとを引き取った。「だが、無用の戦いを避けるための知恵というところは同じだ。不利な戦い、と言ってもいい」
「不利?」
「彼らにそう思わせればいい」
 いぶかしげな村人にむかってセディムは答えた。「――先に進めば命を落とす、と示せばいいのではないか」
 はっと息をのむ音がきかれた。和議という穏やかなひとことから、こんな言葉がみちびき出されるとは誰も思っていなかったのだ。
「ですが……!」ふいに立ち上がった者がいる。ノルドだ。
「それではエフタはどうなるんですか? 線引きをするとは、つまりエフタは……」
 ノルドは今にも泣き出しそうに顔をゆがめた。
 同じような表情の者は他にもいた。皆、近しい家族がエフタにいるのだ。数日前、スレイとともに橋を落とした若者もいた。だが、長は彼らを見回して、きっぱりと言った。
「エフタを見捨てたりはしない」
 その憤りさえにじむ強い視線に、ノルドは思わず身を固くした。 
「平原の人間は、我々とは違う服を着ている」
 男たちの表情を、一人ずつ確かめるようにセディムは見つめていた。
「――聞きなれない言葉を使い、ラシードによれば誰でも剣を持つのがあたり前だそうだ。だが、いくら違うように見えても同じ人間だ。そして、剣を使わずに事を収めることも知っている。話し合い、命をつなげば次の交渉をすることもできる。だが、話ができなければ戦になってしまうだろう」
 その時、広間の扉がほそく開いて、若者がひとり滑り込んできた。スレイだ。西の谷で、今まで見張りについていたのだろう。セディムはまっすぐ顔をあげ、村人の後ろに立つ幼馴染を見つめた。
「――ヤペルから皆に伝えてあるように、兵士には近づかないように。万が一にも、誤解を招いてはならない」
「でも……」
 とまどうような声が上がる。「じゃあ、おれたちは何でここにいるのか、わからねえんですが?」
「昔話を聞くためではないぞ」
 セディムは笑った。
「天幕の使者をたてる。その折には、西の畑の切り通しへ集まってもらいたい。そこに立つだけでいい。頭上に並んだ姿が、もし弓をかまえていたらどうなるか。兵士たちにも想像がつくはずだ」
 そして、あらためてノルドに向き直った。
「小王国は兄弟だ。苦しいときには互いに助けあってきた。だからこそ共倒れするわけにはいかない。エフタはわれわれに預けられたと考えるべきだろう。そして、その預かりものをいつまでも他人に貸しておくつもりはない」
「それも、そう長いことではなさそうだ」
 ふいに上がった声に、村人たちはいっせいに振り返った。一番うしろに立つ姿をセディムは見つめ返した。
「スレイ」
 無精ひげそのままのくたびれた姿で、スレイは仲間の横を通って長の前に立った。
「橋が出来上がったようです。作業していた兵士たちは引き上げました。その後、戻ってきた者がいるのですが――」
 そこで、スレイはためらい、言葉を探した。
「……もう一度姿を現したのは、三人です」
 セディムと城臣たちは顔を見合わせた。
「――三人?」
 スレイは頷いた。
「もしや後ろにひそんでいるのかと思って様子をうかがいました。でも、本当に三人だけのようです」
「そんなはずあるまい」ヤペルはごしごし眉をこすった。
「たった三人で何をするというのだ」
「武器は?」
 セディムの問いに、スレイは首をふった。
「剣をさげていたのは二人だけです。あとの一人は剣も弓も持ってはいなかった」
 広間は一瞬、静まり返った。
「それでは、戦うつもりはないということだな」
「……!」
 スレイははっと疲れた顔を上げた。しかし、長のかたわらのモルードも思案しながらもうなづいた。
「確かに、そうですな。戦う心づもりなら、そんな人数でのこのことやってくるはずがない」
 村人たちは顔を見合わせた。この数日ではじめて耳にした望みある言葉だ。
 話し合うことができるのかもしれない。本当に。
 そんな思いが、稜線からさす曙光のようにその場に広がっていった――ただ一人をのぞいて。
 スレイは石のように立ちつくし、セディムを見つめた。
「……たった三人です」
 だから、とらえてしまえばいい。そう言いかけたスレイの声は、男たちのざわめきに消されてしまった。
「セディム様、使者は?」
「使者には誰が立つんですか」
 セディムは詰めていた息を吐き、幼馴染から目をはずした。
「モルードだ」
 そう答えて、禿頭の城臣をふりかえる。
「向こうが三人というなら、こちらの使者も三人としよう。まずは、彼らと話がしたい。すぐに支度してくれ」
 そして、目で笑って言い継いだ。「――天幕を掲げるのを忘れるなよ。争いに来たと思われたら目もあてられない」
 モルードも答えて笑った。「振りながら行きましょうかの」
 明るいざわめきが部屋中に広がった。
「畑に出ている者たちを呼び戻せ」
 数人の若者がうなづき、駆け出していった。すぐにも支度を、と立ち上がった者もいる。いちどきに事が回りはじめた。ようやく動けるのだ、という思いが男たちの間にあった。
 しかし、ごったがえした広間から、いつのまにかスレイの姿は消えていた。それに気づいて、セディムは黙って目をふせた。
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