37 風渡の野 目次 39


風渡の野  38 
39.
 浅緑にそよぐ麦の若苗の波。その間の細道に重い音を響かせて、イバ牛に乗った狩人たちが行く。その数は三十騎にもなろうか。
 畑の村人たちは苗を持つ手をとめ、腰をのばした。駆け過ぎる狩人たちのいでたちはこざっぱりとして、矢筒にはそろえられた矢羽がのぞいている。実質よりは儀礼的な意味あいのつよい春の狩にも似た光景――それを村人たちは見送った。
 一群の先頭を行くのは城臣のデレクとショルだった。それに続く者たちは並ぶでもなく間隔もまばらで、よそ者が見れば好き勝手に走っているようにも思えただろう。だが、狩人たちは村総出でおこなう狩の隊形を成していた。誰に言われたわけでもないが、慣れた形が走りやすかった。牛たちもまた気性に合う位置におさまって、力強く土を蹴立てていた。牛も人も余力をのこした速さで着実に進んでいく。これも数日がかりの狩の折とおなじ、馴染んだ足どりだ。
 今日は狩ではない。狙うことはあっても矢を放つことはない。それでも、狩人たちの間には昂ぶりが感じられた。
 ――ようやく、動けるのだ。
 そんな爽々とした気持ちで牛に鞍をおき、出来のよい矢をそろえて出発したのだった。
「牛たちも待ちきれなかったのだろうよ」
 一行の中ほどを駆けるノアムの横で、狩人がつぶやいた。
「手綱がなけりゃ、前に飛び出して行っちまう」
「飛び出したいのはお前の方だろう」
 ノアムは笑った。「牛にはわかるんだ」
 すると、風にのってその言葉が聞こえたのだろう。すぐうしろを駆けていた城臣のギリスが追いあがってきた。
「みんな、あせるな」
 と、声をかけながら、左手で手綱を軽くゆすって牛の足並みをそろえさせた。見る者をちょっと驚かせる、器用なしぐさだった。
 ギリスは右腕がひじまでしかない。右足は膝から下がない。雪嵐にまよって、二晩を外で明かした報いだった。さいわい命はとりとめたが、雪に埋もれて冷たくなった右手足は腐って黒くなり、薬師はそれを切り落とすしかなかった。
 弓をひけず、つっかい棒をした足では畑でできることも限られる。それよりは、と城へ上がることになった。まだ四十になるかならずで、見習いのマウロをのぞけばもっとも若い城臣だった。
「先に行ったモルードはいい年だ」
 ギリスはのんびりと言った。
「そうそう牛を急かすはずもない。あまり急ぐと奴を追い抜くぞ。使者より前に出たら、話し合いどころじゃなくなる」
「そりゃ、そうだな」
 男たちは誘われるように笑った。ノアムはそろそろ赤みがかってきた陽に気づいてギリスをふり返った。
「この分では、谷につくのは日が落ちてずいぶん経ってからになるな」
「それで充分だろうよ」
 ギリスは頷いた。
「明日の朝にはずらり並んだ俺たちを見て、アルセナ兵が肝を冷やすってわけだ」
 その時、ひづめの音とともに後ろの方から灰色牛が追い上がってきた。背に跨っていたのは長だった。
 他の狩人とは異なり、狩衣ではなく長の衣に袖をとおしている。こまやかな刺繍をほどこした祭礼用のものだが、他国の人間と会うならば王の衣といってもいい。無論、弓も矢筒も持ってはいない。
 セディムは身軽な姿で走りぬけながら、
「尾根道を越えたら、牛を歩かせるぞ」
 と、狩人たちに声をかけた。
「夕暮れには音が響く。そろそろ静かに進むことにしよう」
 そして、狩人たちのうなづきを目におさめ、さらに前へ駆けぬけようとして、ふと手綱をひいてふり返った。
「ギリス、来ていたのか」
 まだ年ともいえない城臣はにやっと笑った。
「たまには遠出もいい。矢を持たなくていい狩なんぞ、そうありませんからな」
 その背をのぞきこんだセディムは目をみはった。
「本当に持っていないんだな」
「ええ。だから、よろしく頼みます」
 暢気そうに頭を下げてみせるギリスに、セディムはおもわず憎まれ口を返した。
「遠乗り気分でうかうかして、牛から落ちるなよ。戻って拾ってやったりしないぞ」
「気をつけましょう」
 セディムは目で笑うと、牛に声をかけてあっというまに先へ山道を登っていった。
「ふむ」
 ギリスはノアムをふり返った。
「どうやら緊張しておられるな。伝令など、ご自分でしなくてもいいのに」
「長はじっと待っているのが嫌いだからな。俺たちの顔を見て、話をしている方が落ち着くそうだ」
「ほう。……そりゃ、むさくるしいだろうに。な?」
 これにはノアムも思わずふきだしてしまった。
 そして、どこかほっと力がぬけた。ギリスの冗談にはいつも助けられるのだ。城の中にはこんな男も居た方がいい。
「ギリス」
 ノアムはふと尋ねた。
「奴らはいったい何を考えているんだろうか?」 
「……」
 ギリスは黙って、手綱を手に巻いた。すると、イバ牛は言われたとおりに速歩をゆるめる。ノアムもあわててそれに倣った。道はちょうど尾根にさしかかったところで、気がつけば、まわりのひづめの音も小さく穏やかになっていた。
 天幕の使者という望みの糸があったことは喜ばしい。
 この風習を聞かされて、ノアムはいくらかほっとしていた。戦の覚悟もしたとはいえ、穏やかに話し合えるならばその方がいい。だが、向こうがどう答えるかと考えると、これがまったく想像がつかなかった。
「三人というからには……」
 ギリスは足どりの変わった牛の背で、姿勢をとりなおしながら答えた。
「戦うつもりはないのだろう」
「それじゃ、何が望みなんだ?」
 ギリスはふと口をつぐんで若者を見つめた。
「……平原の人間の考えなど、わかる者はレンディアにはいないよ。長もそうだろう」
「セディムも?」
「ハールの御子であってもわかるまいよ」


40.
 尾根を越えると、セディムはイバ牛の脇をしめて足取りを変えさせた。ルサ――灰色の毛並みもつややかな若い牛――はあるじのちょっとした癖もよく飲み込んでいる。いつもと同じ、ゆったりとした歩みになって岩だらけの道を下りはじめた。
 セディムは頬をなぶる風が変わったのを感じて、息をついた。
 やはり、山行きはいい。思えば春の使者を、あの陽光を思わせる髪の少女を見送ってからというもの、気を揉むばかりの毎日だった。
 ふと、まわりに目を遊ばせればイバ牛たちが点々とゆるい坂道を下りていくところだった。狩人たちは牛を細い水流へ導いている。
「ヨウ、ヨウヨウヨウ」
「そら、こっちだ」
 岩の間をほとばしる水流は夕陽のもとでほの黒く見える。半日走ったあとの水は、牛にも人にもさぞ甘いことだろう。
「みな、ようやく気がはれたようですな」
 そう声をかけてきたのはショルだった。真っ黒なイバ牛から降りて手綱をひいている。
「やることができた、動けるというのはいいもんです。セディム様もそうでしょう」
「ああ」
 からかうような城臣の視線をちらと見て、セディムは短く答えた。「城に篭もっていても、何も始まらないからな」
 セディムもルサの背からすべり降り、水際へ引いていった。先に水を飲んでいた者は、長の姿を見かけるとさっと場所を空けた。
「もうじき野営するんですか」
「そうだ。牛にはよく水を飲ませてやれ」
 なめらかなルサの背をこすってやりながら、セディムはてんでに腰を下ろした狩人たちを見守った。これはいつもの狩ではない。だが、彼らを結びつけているのは同じ高揚感なのだろう。そう考えて、セディムは思わず背すじをのばした。事は長の肩にかかっている。
「……そろそろ話をつけた頃だろうか」
 独り言のつもりだったが、そばで休んでいたショルが顔を上げた。
「モルードならうまく段取りしてくれるでしょう」
 と、水の入った皮袋を長に渡しながら答えた。簡素な天幕となる白い布と棒だけを携えて、一足先に出て行った城臣のどっしりした背中が思い出された。
「我々は考えられる限りを尽くした。そして、応えはあったんです」
「応え?」
 いぶかしげな長に、ショルはためらわず答えた。
「レンディアの決断に対して、ハールは三人の使者というかたちで道を開いて下さったのです。あとは信じて委ねるより他ありません」
「……」
 セディムはすぐにうなづくことはできなかった。
 ハールを信じるしかない――確かにそうだ。だが、委ねるしかできないなどとは思いたくない。この長の衣に袖をとおすようになって、幾度もそう考えてきた。
 ショルはそんな長の気持ちには気づかないようで、夕風渡る渓を見渡した。西の山なみはそろそろ黒くなりはじめていた。見渡す空の端から端まで、夕陽の金色が満ちている。
「陽が帰るぞ」
「ハールの庭へ帰っていく」
 幾人かのつぶやきに誘われて、狩人たちはツルギの峰をふりあおいだ。
 小王国では陽が雪の峰の向こうへ沈むことを、帰る、と言いあらわす。また、この落日に祈ると願いがかなうと信じられている。狩人たちは牛の世話をする手を休めて、しばし頭を垂れた。
 セディムもまた目を閉じた。願うことなら山のようにある。
 エフタを離れた二人の子の無事。レンディアの上に恵みがあるように、エフタの上にもあるように。そして、何より山の平穏のために力を尽くすことができるように――。
「……?」
 何かに呼ばれた気がして、セディムは顔を上げた。その気配に水を飲んでいたルサも耳をぴくりとさせた。セディムはろくに口もつけなかった革袋をショルに返して、手近の大岩に駆け上った。
「セディム様?」
「ひづめの音が聞こえる」
 近くにいた城臣や村人たちもそれに気づいて、身を固くした。西の方、峰の影に呑まれるように続く道を見はるかし、セディムは身を乗り出した。
「イバ牛だ」
 長につづいて岩に登ったデレクも声を上げた。
 風が雲を吹きはらった空はもう紅にかわっていた。それを背にした黒い小さな点にようやく気づいて、男たちは手びさしして見つめる。
「モルードか?」
「柄にもなく飛ばしおって」
 笑い声がこぼれた。だが。
「静かに」
 するどい声に村人たちはふり返った。岩の上のセディムはまだ使者の影を見つめている。いや、使者の後ろ、だ。
「……もう一騎、来る」
 その言葉にこたえるように、ひづめの音が重なった。聞き慣れたイバ牛のものに違いない。だが、セディムは眉をひそめた。
 首尾を知らせに帰ってくるならば一騎だと思っていた。三騎、でもわかる。何らかの理由で戻らざるを得なくなったのかもしれない。だが――。
「何故、二人なんだ?」
「話すこともできなかったんでしょうか?」
 かたわらのデレクの表情も固かった。だが、長は首を振った。
「そんなはずはない。他のことならともかく……天幕の使者はひとまずは拒まないものだ。少なくとも一言なりと話したはずだ」
 その間にも二頭のイバ牛は近づいてくる。黒い姿はかなり大きく見えてきた。狩人たちも待ちきれず、水際に牛を置いて岩にのぼり、西を見つめた。
「……」
「セディム様、何を……」
 食い入るように彼方を見つめて、身を乗り出そうとする長の肩をデレクはあわてて押さえた。
 夕紅に染まる岩をまわり込むように曲がり道が途切れ、ふたたび現れる。今はもう牛の姿がはっきり見えるようになった。
「あれは」
 こぼれるように呟いた長の目がみるみる見開かれた。口から声にならない叫びがもれる。
 濃い毛並みのイバ牛、その上の黒い礼服姿――。だが、その肩の上に見知った顔はなかった。狩人たちのもとへ走りこんできた牛の背から、使者のからだが滑り落ちた。黒とおもわれたのは首を落された血の色だった。
 狩人たちの間から叫び声があがった。
 二頭目に乗っていたのはまだ若い体つきで、それで最初の使者がモルードだったとようやく知れた。若者の顔ももう二度と見られることはない。続いて、もう一頭が不安な足取りで駆けてくる。その背は空だったが、血に染まった鞍を見れば何があったか疑うべくもなかった。
 えづきを誘う光景にある者は顔を覆い、ある者は使者の体にすがりついた。
「セディム様、これを……!」
 怒鳴ったのは、モルードの身体を抱え下ろしたデレクだった。手には血染めの何かが握られている――書簡だった。セディムはそれを受け取り、はがすように開く。
「『十二旧市とイル河より西をおさめるアルセナ皇帝の名において』……」
 セディムは眉をひそめた。
「『……此の地を……として治める。よって、本国……を迎えるべく三日のうちに道を開き、宿営地を整えるよう申し伝える』」
 男たちは静まり返った。セディムはもどかしげに仲間を見回し、
「アルセナ風の言い回しがところどころわからない。だが、言いたいことは明らかだ」
 手にした紙を握りつぶした。
「――レンディアはアルセナの領土であるから、兵士を迎え入れる準備を整えろ、とな」
「戦だ!」
 叫び声とともに、何人かが立ち上がって牛を呼び寄せた。
「すぐに谷へ向かおう」
「奴ら、モルードたちと同じ目にあわせてくれる……」
「だめだ!」
 するどい一喝に男たちは思わず立ちすくんだ。セディムは仲間一同を睨めつけた。
「だめだ。皆が皆、使者の二の舞になるぞ」
「だが、黙ってはおられません!」
「奴らの言いなりになれと仰るのか」
「ショル、デレク、二十人を選んでここに留まれ」
 抗う声を叩き伏せるようにセディムは声を上げた。
「山道を守れ。何があろうと彼らを通すな。喰い止めろ。他の者はすぐに村へ戻る。残る者に矢を譲れ。先駆けは……」
「俺が行きます」
 ノアムがそう言いながら、もう牛の背に上がって手綱をひいた。セディムは幼馴染の顔を苦く見つめた。
「村に残っている狩人たちに矢を揃えさせろ。数がいる。畑を置いてもいいから、鏃をつくれるものは城へ集めておいてくれ」
 ノアムは頷き、牛に声をくれて手綱をふるった。その姿はあっというまに岩角を曲がって消えた。
 ここに残る者と戻る者の間で矢が渡された。務めなかばで果てた者たちの遺体は牛の背に押し上げられ、括りつけられる。置いてなど、行けない。
 セディムは何も言わず、それを手伝った。使者に随従していた若者の身体は重く、まだ温かい。眠っているかのようだ。だが、血の匂いが現実をつきつけてくる。
「ショル、後を頼んだぞ」
「任せて下さい」
 すっかり陽の落ちた山道に、ひとつふたつと松明がともされる。セディムはルサの背にあがり、仲間を見回す。
「戻るぞ」
「足元を照らせ」
「遅れるな」
 手に手に灯りをたずさえて、男たちは宵闇へと走りこんだ。
 山はやがて黒く、すべてを呑みこんで沈黙した。その中を、セディムはただ手綱を握りしめて牛を急がせた。
 時おり、夜の中から牛をなだめたりせかしたりする気配がする。だが、セディムの耳には聞こえていなかった。
(甘かった)
 思い浮かぶ言葉はそればかりだった。自分自身への怒りにまかせて叫びたかった。それを噛みしめれば、砕けそうな歯がきしみをあげる。
 平原の人間のことなど、これっぽっちもわかっていなかった。
 どうにかできる、などと思い上がって、三人の命をうばわれたのだ。
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