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風渡の野 39 | ||
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夜が野山をおおっていた。 闇の中で草がうねり、ざわめきと共に風を運んでくる。星々の光も、細い月も今夜の雲もよいにうすれて、草の海を渡る者の助けとはならなかった。 草はうっそうと深く、かき分ける腕を傷つけて重くまとわりつく。春とはいえ風はまだ冷たい。明け方近く、一行がようやく足をとめた頃にはアーシアはくたくたになっていた。 「おい、こっちだ」 風渡りが小声でうながし、手灯の覆いを少しだけずり上げた。すると、足元を照らしていた光の輪が大きくなって、目の前にそびえる岩の小山をあらわにした。 そのごつごつと荒々しい姿にアーシアはぎょっとして立ちすくんだ。かたわらでティールも息をのんだ。だが、風渡りはそんなことは気にもとめず、慣れた手つきであたりの草をむしって小さな焚き火をこしらえた。 夜空を背にそびえる大きな岩。その根方はくぼんでいるので、ちょっと離れると野営の火も見えなくなる。そこへ、アーシアは倒れこむように座り込んだ。 (少し歩いただけなのに) 体がひどく重かった。山を歩くことを思えば、こんな平地などどうということもないはずなのに。 「火などたいて大丈夫か?」 ラシードはいつのまに拾っていたのか、潅木の小枝や蔓枝を火にくべながら尋ねた。 「心配するこたねえよ」 ホークは肩を何度も回してほぐし、答えた。 「この方角なら町からも森からも見えねえからな」 タジルの裏門を出た後、一向は草の海の中を無言で、ただひたすら進みつづけた。 町を出たらすぐに森へ向かう。そう思っていたアーシアは不安になってラシードの袖をひっぱって尋ねた。しかし、答えたのは風渡りの方で、しかも短い罵り言葉が返ってきた。 「森へのこのこ入っていって、身ぐるみ剥がれてえのか」 アーシアはむっとして声の主をにらみ返したが、夜闇の中では効きめはなかった。風渡りがいうには、森には後ろ暗い事情の者が野営していることが多いのだという。 「あんたらと同じだよ」 彼はすました顔で言った。「何にしたって、こんな逃げる足のない状態では誰とも会いたくねえからな」 焚き火が小さいながらもしっかりと立ち上がると、風渡りは腰を落ち着けて干肉をくちゃくちゃ噛み始めた。揺れる炎の反対側では、アーシアはこわばった手を火にかざして暖めた。闇の中で草をかき分けるのに疲れて、腕も足も棒きれになったような気がした。 「食料は?」 ラシードの問いにティールはだまって頷き、皮袋から干肉をとりだした。それを見てアーシアはがっかりした。本当なら湯にもどして食べるものだったからだ。 夕べはろくに食べていなかったから、腹が抗議の声を上げる。 (煮て、塩をふったら美味しいだろうな) おもわず想像がこぼれた。だが、煮炊きするには疲れすぎていた。肉というより石のようなしろものを噛むと情けなくて、アーシアは泣きそうになった。その横では、ティールも口にいれたものが肉になるのを辛抱強く待っていた。 「そうだ」 ふいに肉をむしる手をとめて、ホークが声を上げた。 「俺としたことが忘れるところだった。ちくしょう」 と、ラシードに向かって汚れた手を突き出した。「よこせ。銀貨一枚だったよな」 アーシアは持っていた肉を落としそうになった。 「……何、言ってるの?」 そして、薬師が懐に手を入れたのを見ると、さらに目を瞠った。 「あなたは何にもしてないじゃないの」 思わず声がきつくなる。「誰も襲ってこなかったし、町から出られたのだってパルトのおかげでしょ」 「嬢ちゃん、あんたな」 だが、肉を握りしめて立ち上がろうとしたアーシアをティールはおしとどめた。そして、薬師をちらと見て、 「渡して下さい」 「な……何で渡すのよ!?」 アーシアは思わず大声を上げた。 「何もしてないのに、偉そうに言いたい放題言って!」 「アーシア」 兄は妹に向き直った。 「最初の野営地まで――そういう約束だからだ。盗賊が襲ってきても来なくても、彼との契約は守るべきだ」 「そうとも、意外とわかってるじゃねえか」 そう言って、ティールの肩をいやに親しげに叩いた。そして、すました顔で銀貨を受けとると、そのきらきらした色合いに見惚れていた。何も言えなくなってしまったアーシアはため息を隠して、乱暴に肉を噛みちぎった。 簡単な――あまりに簡単な――食事をすませると、ラシードは背負っていた荷の中から巻き紙を取り出した。決めなければならないことがあった。 「リド、ナバラ――」 ラシードはそう呟きながら、草の上に紙を広げた。隅をおさえるために手ごろな石を探したが、あと一つが見つからない。 「いずれかの町に身をひそめて、知らせを待つ」 もどかしそうに干肉の袋を乗せて、ようやく広げられたのは一枚の地図だった。 これから先どうするのか、そして聞き覚えのある宿場町の名が気になって、アーシアは兄の横で身を乗り出した。疲れてはいたが、好奇心が動くのはおさえようがない。 「私たち、今、どこにいるの?」 「このあたりです」と、ラシードは指さした。「この肉の下あたりが工房都市、そのまわりにあるのが――あそこの森だ」 「ここには何があるの?」 「平原には草と丘、木立がある。河も町も畑もある。気長に歩いて行けば、しまいには海に辿り着く」 命があればな、と風渡りは口をはさんでくくっと笑った。 「アルセナの意図がわかったら、あるいは帰れる見通しが立ったら使いを寄越すと……従兄上は仰ったのですね」 タジルを出てから、ずっと考えごとに沈んでいたティールは独り言のように呟いた。 「はっきりしねえ話だな」 風渡りは満腹したのだろう、草の上にごろりと横になり、しかし隙のない目つきで尋ねた。 「そりゃ、いつのことになるんだ、ラシード?」 「さてな。だが、その前に安否を確かめるために誰かを寄越すだろう」 「あんたらしくもない呑気だし」 揶揄を聞き流して薬師は地図から目を上げた。 「ナバラの方がいいだろうとは思うが……。ホーク、北東部地方の戦の様子を聞いているか?」 「相変わらずさ。二つの河の間であっちこっち。攻め入ったり守ったり」 「旅商人たちが、アマラ近くで道が作られていると話していましたが」 ティールも噂話を思い出して、ぽつぽつと言葉を継いだ。 「道?」 「首都からの命で、冬じゅう道をつくっていたそうです」 「すると、戦線は河を越えた、ということか?」 「聞かねえけどな、そんな話は」 |
42. | |
戦線はうねる波線を描いている、と薬師はいった。あるところではシル河の西、あるところではシル河と古いイル河の間。 「川下近くでは斑点のようにいくつもの戦場がはびこっています。このあたりには十二旧市とよばれる古い都市群があります。かつてはバクラを宗主にいただいていたが、最近はかなりさびれているらしい」 「ぱっとしねえ、辛気臭い町ばかりだよ」 「二つの河って?」 アーシアは口をはさんだ。聞いたこともないあれこれに、さっきまでの不機嫌も忘れて地図をのぞき込んだ。 「平原を貫いて流れる、これがシル河――『新しいイル河』という意味です」 「イル河はどれ? ハールの河なのでしょ?」 薬師の器用そうな指は地図の上をよこぎって滑る。 「シル河の東に、ほとんど枯れ果ててしまった細い流れがある。これがイル河。かつては地を潤し、命を育む恵みの河とよばれたものの今の姿です」 「いやな言い方ね」 風が背筋を撫ぜた気がして、アーシアは肩をふるわせた。「イベリスはどこ?」 古王国から落ち延びた者がつくった――エフタやレンディアと同じ由来を持つ国だから、何となく親しみがわく。だが、交流などまったくない。ティールも場所はよく知らないようで、地図の上に身を乗り出した。 ここです、と示した薬師の指は紙の下の方、はるか南の山脈を越えた海辺にあった。イベリスは海の向こうの土地の物を平原に運んで商っているという。 「ここは商売で成り立っている国です。だから、アルセナにもバクラにもつこうとしません。どちらにも笑顔を見せ、どちらからも身をかわして生きている、というところか」 「きれいどころと一緒だよな――痛えっ」 ぱしりと頭をはたかれて、ホークは昔馴染みをにらみ返した。 「こんなに小さい国なのね」 アーシアは呆然とつぶやいた。 「ですが、豊かな国ですよ」 薬師はぱきりと枝を折って、炎に放りこんだ。 「剣こそ取らないが、アルセナにもバクラにも少なからぬ影響力を持っている」 「剣を持たない?」 「客に切っ先を向ける商人はいませんからな」 「――それで?」 アーシアは身を乗り出した。「エフタはどこにあるの?」 「このあたり、でしょう」 そういってラシードが指差したのは紙の外、草むらの中だった。 「地図には載っていません」 アーシアは地図から顔を上げ、薬師の目をのぞきこんだ。 「……載っていない?」 「カバラス山脈もこの通りだ」 示された紙の左上は何も書かれていない、白いままだった。 「誰もこんなところまで行こうと思わないから、地図に書く必要もない。そして、書かれないから誰も知らない。まれに小王国へやって来るのは『知られざる理想郷』を求める者ばかりだ。ご存知でしょう」 アーシアは黙り込んでしまった。 何年も前に、エフタへ旅人がやってきたことがあった。大岩より上には何もないという忠告を無視して彼は山道に消えていき、そして降りてくる姿を見た者はいない。 愚かなことをすると年寄りたちは嘆いたが、なるほど、この地図を見てなお山へ踏み入ってくるなど、まともな人間のすることではない。 「――よし。リドへ行こう」 薬師はきっぱりと言って、地図を巻きかたづけ始めた。 「兵が動くならシル河から離れて、成り行きを窺うほうが良さそうだ。まずは身を隠し、レンディアからの使いを待つことだ」 「――ですが、あてのない知らせをいつまで待てるのですか」 ふいに、それまで炎を見つめていたティールが口をひらいた。眉を寄せ、膝の上で組んだ手を握り締めた。 「ひとまず、アーシアは町へ行かせます。ですが、私はエフタへ帰りたい」 「兄さま?!」 アーシアは思わず腰を浮かせて、兄の肩にすがった。 「エフタで何が起きているのかもわからないのに?」 「自分の居るべき場所へ行きたいだけだ。皆が長の帰りを待っている」 ティールの目に苦さがひらめく。「自分のするべきことをするように――父上が最後にくれた言葉を守りたいんだ」 アーシアは息をのんだ。 父が亡くなったのなら、ティールがエフタの長になる――わかっていたはずなのに、今の今までぴんと来ていなかったのだ。だが――。 「ウォリスは無駄死にを勧めたわけではないでしょう」 厳しい声に、兄妹ははっとふり返った。ラシードは枝を折る手をとめて、こちらを見つめていた。 「長に願いをかけない者などいない。それは、わかる。エフタでもレンディアでも同じです。だが、今帰ればどうなるとお思いか」 「ここに留まっているよりはましです」 ティールは苛々と手をひらいたり握ったりした。 「来るかどうかもわからない知らせを待って、平原のことなど何もわからずに右往左往するばかり。ここに居て何になるのですか。それより、山のことなら知っています。兵士の目をぬすんでエフタへ戻ることもできる。そうすれば、アルセナが何を望んでいるのか知ることもできるでしょう」 「彼らは何も望んだりしない。要求するだけです」 ラシードは冷ややかに諭した。 「いいですか。ウォリス亡き今なら、なおのこと。村人が望んでいるのは――生きて、長が帰られることでしょう」 「……」 「どうかレンディアからの知らせを待っていただきたい」 ティールはきつく唇を噛んだ。やがて、ため息とともに肩を落とした。 「――決まったかい」 ホークはのんびり大きなあくびをして、起き上がった。 「ひとまず、あんたたちは眠るんだな」 と、頼りなげな兄妹に言う。「見張りは縁起物の銀貨を投げて決めようぜ、ラシード。表が出ればあんたが見張り。裏が出れば俺が寝る」 と、投げ上げようとしたところ、 「ホーク」 薬師はさらりと、だがきっぱりとした声で止めた。「古臭いな」 風渡りは満足そうに笑った。 「よかったぜ。こんな手にひっかかるようじゃ先が思いやられるからな」 裏なら俺が番をする、と言って、はじき上げられた銀貨は風渡りの黒い掌に落ちた。上には男の横顔が刻まれていた。 「ざまあみろ」 風渡りは笑いながらどうと横になり、あっというまに寝息をたてていた。ラシードは背中から長い剣をおろすと、それを抱きかかえて弱まり始めた炎のそばに座った。 「二人とも、もう眠りなさい」 それだけ言って、こちらに背を向けてしまった。 アーシアはだまって草の上に横になった。 地面に広げた厚い毛織の布を通してすら、湿気が体にまとわりつくようで気色悪い。しかし、焚き火を見つめながらいつまでも寝つかれないのは、そのせいばかりではなかった。 (今頃、ディスはどうしたかしら。オリスは? こんな知らないところに置き去りにされて……) 薬師は、イバ牛が残っていれば追っ手の目くらましになると言った。 アーシアは涙があふれそうになった。もしもエフタへ帰れたとしても、村の大事な牛を捨ててきたことを何と言えばいいのだろう。そして。 (地図に載っていないエフタ。それなら、兵士たちは何をしに来たんだろう?) アーシアは声をたてまいと口にこぶしを押し当てた。自分が腹立たしかった。夕べから、いったい何度こんなことを繰り返しているのか、と。 兄は長としての自覚を持って、一歩あるきだそうとしている。なのに、自分はどうだろう。こんなところで、同じ事を考えては泣いているのだ。 寝返りを打つと、隣には薪にあかあかと照らされているティールの背中が見えた。眠っているのか、ただ横になっているだけなのかわからない。声をかける気にもなれなかった。 |
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