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風渡の野 40 | ||
43. | |
白い――――。 雪嵐か、とおもわず立ちすくんだアーシアは、それが晴れつつある靄だと気づいて、ほっと息をついた。頬に、腕にまとわりつく靄の流れはみるみるうすれて、目の前に濡れたような色の岩場が広がった。 (そうか。雪が融けたんだ。だから、空気に水の匂いがするんだわ) ゆるやかな山の斜面。そこを這うように雲が谷へと降りていく。その影をうつすほどに明るい陽が差すと、一瞬にして靄は消え去り、見慣れた谷すじがあらわになった。それは、春一番の木の芽をみつけた、あの山肌だった。 アーシアは眉をひそめた。見えるものすべてが小さい。いや、高い崖の上に立っているのか、すべてが眼下はるか、豆のように小さく見えるのだ。 「どうです、きれいでしょう」 ふいに聞こえた声に、アーシアは振り返った。逆光で顔はよくわからないが、それはレンディアの長らしかった。その姿は遠くを指差して言った。 「これがレンディアですよ」 アーシアはむっとした。 「ここはエフタです。私がアカヤナギの枝を見つけたんだもの。私が春の使者になるのよ」 自分の声に驚いて、アーシアは目を開けた。 頬にぽたりと落ちた朝露が流れて、唇に溜まった。湿っぽい空気、草いきれ――夢の原因はこれだったらしい。夢の中の気分そのまま、しかめっ面で身をおこすと、太陽はすでに地平線から離れていた。 急ごしらえの炉はすっかり冷めきっていた。その向こうの黒い小山のような姿はレンディアの薬師らしい。剣をかかえたまま深い寝息をたてている。 「……兄さま?」 アーシアの細い声に、岩陰からティールが半身をのぞかせた。薬師と見張りを交代したのだろう。もう一人の姿は影もかたちもなかったが。 ティールは岩に寄りかかり立って、草野原を眺めていた。 ぽかんと晴れた青空。冷たい風ばかりが耳に響く。冬の間に枯れた草を下に隠して、薄緑がゆれる。ここではもう雪はひとかけらもない。 「よく眠れたか?」 「……うん」 アーシアはあいまいに答えて、兄の横、日陰のひんやり湿った草の上に座りこんだ。ほんとうは浅い眠りにしがみついていたい気分であったのだけれど。 「あのね。夢をみたわ。エフタにいる夢だった」 その続きを思い出して、アーシアはつい眉を寄せた。それを不思議そうに見て、ティールはぽつりとつぶやいた。 「……私も夢を見たよ。レンディアの」 「レンディア?」 「山を降りたときに、最後に見た風景だった」 ティールは遠くを見つめてまぶしそうに目を細めた。 「雪おろしがすんで耕したばかりの土。今年は畑を増やすのだと従兄上は言っていた。平原の北で育つ新しい麦を植えてみるのだ、と。うまくいったら、来年はエフタにも種麦を分けようと言ってくれた」 アーシアは黙って兄の横顔を見守った。その目に映っているのは草野原ではない――きっとエフタの畑だ。うねる草は麦の穂に、その色は金色に。その幻に近づくために何ができるか、考えているのだ。 ティールは厳しい目で草原を見つめていたが、不安げに見上げるアーシアに気づくと、ふわりと微笑んだ。アーシアの髪をくしゃくしゃかきまわしながら隣に腰を下ろす。そして、懐から麻布の包みを引っ張り出した。 「これを、二人で持って帰ろう」 中をのぞきこんでアーシアは目を瞠った。黒い鉄の掻き刃物だった。 「これ、どうしたの?」 アーシアは思わず兄の肩を揺さぶった。「すごく高いものなのに」 パルトと歩いた市場で、同じ形を見たことがあった。手にすっぽり収まりそうな小ぶりな品だというのに安くはなかった。値段を聞いてアーシアはがっかりしたのだ。 「貰ったんだ」 「……もらった?」 アーシアは兄の顔をまじまじと見つめた。ティールは恥ずかしそうに笑った。 「いろいろあったんだが、ともかく貰ったんだ。持って帰ったら……多分、みんな喜ぶんじゃないかな?」 「絶対、喜んでくれるわ」 アーシアは言い切り、夢中で頷いた。 「絶対買えっこないって思ってたのに」 「ほら、半分渡しておくから」 ティールはいくつか包みなおして妹の手に押し込んだ。 「大丈夫だ。必ず二人でエフタへ持って帰ろう」 「……」 アーシアは渡された包みをそっと開いてみた。 黒々と重たく光る鉄は、パルトが見せてくれたものに劣らぬ見事なかたちをしている。 「きっと、ものすごく喜んでくれるわ。城のみんなも――」 父さまも、と言おうとしてアーシアは唇をかんだ。 「――村の狩人たちも、びっくりすると思う」 そう口に出すと、馴染んだ顔ぶれと声が聞こえてくるような気がした。 ――だから、帰ろう。 きっと帰れる。そんな予感を自分に言い聞かせるようにアーシアは何度も頷いた。 「二人とも。眠れましたか」 太い声に振り返ると、ラシードが着古した外衣を首元でかき寄せながら身を起こしたところだった。 「ええ。あの風渡りはどうしたの?」 「日が昇る前に起きて、街道のようすを見に行きましたよ」 ティールはいぶかしげに目を細めた。 「ここまで、という約束だったのでは?」 「ええ。リドまで雇うことにしました。ふっかけられることでしょうが」 どうやら金もうけに憑かれているらしい風渡りの薄笑いを思い浮かべて、アーシアは顔をしかめた。 「あの人、本当に役に立つの?」 とたんに、ラシードは笑った。山の岩が落ちるようなおおらかな声だ。 「腕は立ちますよ。それは、私が保証する」 「信用できるのですか?」 ティールの問いに、薬師の目がしぶとく光った。アーシアはどきりとして手を握りしめた。故郷の男たちで、こんな表情をみせる者はいない。 「言葉の意味にもよりますがね。金を見せている間は裏切りません。ああいう、一人で仕事を請け負う風渡りは皆そうです」 そして、街道の方をふりかえった。なだらかに続く丘や窪地のどこにも人の姿はない。だが、それでかえって安堵したようにラシードはうなづいた。 「奴が戻るまえに、何か腹に入れましょう。帰ってきたら、すぐ移動することになる」 |
44. | |
小さな鉄鍋に湯が煮立つと、ラシードは干し肉を小刀でけずって放り込んだ。その手馴れたようすにアーシアは目を瞠った。 狩人が山では自分たちで煮炊きすることは知っている。だが、村へ帰れば料理は女の仕事だから、男が料理する姿はめったに見たことがなかった。 アーシアが使い慣れない野営の鍋に手こずっていると、横ではティールが当たり前のように塩の塊を削っていた。こんな兄を見るのも初めてだった。 「あなたは長いこと旅をしてたって聞いたけど……」 ラシードは鍋から顔を上げて、かすかに笑みを浮かべた。 「今回、レンディアへ帰ってきたのは八年ぶりです。その前は長かった。二十年近く平原を歩き回った」 「それでは、従兄上とはじめて会ったのは……」 「八年前、ちょうどレンディアの長となった頃だった。年は十五ばかりだったか。頑固で生意気、ケルシュや城臣連中に喰ってかかっては窘められて――。その時の顔といったら、なかなか見ものでしたな」 と、からから笑って香草を鍋に放り込んだ。 「見もの……」 二人は目を剥いた。仮にも故郷の長の話だのに何の遠慮もない。ティールは言葉を無くしていたが、アーシアは少しばかり意地の悪い満足感をおぼえた。 鍋の中身が何ともいえない香りをたてはじめると、ラシードは小椀に麦粉をいれて熱い汁を注いだ。それぞれに熱い椀を手渡して、 「どうぞ」 と、ティールに向かって頷いた。 兄妹は受け取って薬師を見た。三人は一瞬、互いを見つめあって黙り込んだ。最初に口を開いたのはラシードだった。 「どうぞ、長殿。ハールに感謝を」 ティールはおもわず顔を赤らめた。目を閉じて、いつもの食前の祈りをつぶやいた。 温かい食事を口にしたのは久しぶりのような気がした。アーシアはめずらしく黙り込んで食べることにかかりきりだった。 とろりとした熱々の汁をすすりながら、ティールはためらいがちに何度も薬師に目を向けた。その身なりは小王国ではめったに見られないものだった。 平原風のごわごわとした外衣は長いこと着込んでいるのだろう、草臥れてあちこち皺にそって薄くすり切れていた。その中の上着も下履きも似たようなありさまだ。その中で、小腰につけた布袋だけが新しく目についた。どうやら、これだけは服と違って幾度も取り替えられているらしい。薬草袋であることは想像がついた。 「あなたは先の長の従兄弟だと聞きました。自分がレンディアの長となるかもしれない、とは思われなかったのですか?」 薬師の椀を持つ手がとまった。 「私が?」 ラシードは心底驚いたようだった。目を瞠り、だがすぐに笑みをうかべた。 「考えたこともない」 「でも……」 薬師は手をあげて、ティールの問いの残りをさえぎった。 「私がレンディアをあとに、山を下りたのはあなたぐらいの年頃だった。ケルシュにはまだ二人の子が居たし、ケルシュも長妃も健在だった」 「まだ?」 「聞いたことはありませんか。セディムの兄にあたる子供たちで、今はハールの御許にある」 「ああ……」 そういえば、そんなことをずいぶん昔に聞いたような気もした。 「では、今は? 従兄上に何かあったら……」 「もし、そうなれば。おはちが回ってくることになる」 ラシードは笑ってみせた。「だが、そんなことももう無いでしょう」 と、焚き火ごしにちらとアーシアを見た。アーシアはぎょっとして椀をすするのをやめた。 「レンディアは近いうちに長妃を迎える。じきに世子にも恵まれよう。いずれにしても、私は気ままな暮らしが長すぎた」 薬師は鍋をかき回した。 「いまさらレンディアの城におさまって、できることなどないでしょう」 まるで他人事のような淡々とした声。そこに放浪の日々の孤独がのぞいた気がして、ティールは押し黙った。 二人の沈黙を邪魔しないよう、アーシアは空になった椀をそっとこすって仕舞うと、立ち上がってぶらぶらと岩を登っていった。 岩のてっぺんまで登りきり、それでもまだ足りないかのように背伸びをして、アーシアは地平線をながめた。 風が草を波打たせる。隆起を繰り返しながら続く景色はどこまでも広く、がらんとして何もない。山よりよほど寒々しい。思わず身震いして、アーシアは膝をかかえて座り込んだ。 (兄さまが長になったら、エフタはどうなるんだろう?) ティールがあんなことを尋ねた気持ちはよくわかった。アーシアと同じように、当人もまだ長という名が身に馴染まないのだ。 昔話やエフタの年代記にでてくるたくさんの長たち。りっぱな狩人や書物を愛した代々の長。もの静かな者もいれば、豪放磊落とうたわれた者もいた。ティールはきっと父親によく似てくるだろう。落ち着いて、考え深く、それでいて必要な判断に迷うことはない――。 「それとも、レンディアの長のようになる?」 アーシアは膝の上にあごをのせながらつぶやいた。 いつも新しいことを考えて実行しているというあの長。そういえば、レンディアの畑は畝のかたちのせいなのか、どこか見慣れなかった。あの長を慕うティールのこと。もしかしたら、畑のことも狩の仕方もレンディア風のことが増えていくのだろうか。 ふいに寂しくなって、アーシアは肩をいっそう丸めた。 ――エフタに帰りたい。 ほんの十日前には山を下りることばかり考えていた。遠くまで、それこそ何年でも旅をしたいと思っていたのに。 今は無性に帰りたかった。 父の顔を見たい。イバ牛をこすって、水を飲ませてやりたい。城臣たちの昔話を聞きたい。メリナとおしゃべりをして、笑って……。 アーシアはついと顔を上げた。どこかで鳥の声が聞こえたのだ。 だが、その姿はない。山ヒタキと思ったのだが、青空のどこにも弧を描く灰色の鳥は見えなかった。そのとき、 「―――――― ……イィ……」 ふたたび響いた遠い声にアーシアは思わず立ち上がった。岩のしたでも聞こえたのだろう、ティールたち二人も手びさしして西の地平線を見ている。 やがて、遠く草の中にひらめく緋色と四つ足の生き物の姿が見えてきた。軽い足取りで草の原を駆けてくる。その背に跨っているのは、緋色の上着を着た風渡りのようだった。 |
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