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風渡の野 41 | ||
45. | |
「ヨーウ、ヨウ。イィル(行け)――おい、ラシード、手伝え」 帰ってきたのは風渡りと、アーシアが見たことのない四頭の生き物だった。イバ牛よりも背は高く、体は細い。人慣れたようすからすると家畜なのだろう。 その一頭に跨った風渡りは追い声をたて、他を囲い込むように回る。描く円がしだいに小さく歩調もゆるやかになると、三頭もそれにならって足並みを落とした。 そのさまに、アーシアは声もなく見とれてしまった。彼らのしなやかなからだは美しかったし、風渡りの腕前も悪くないと思ったのだ。 ラシードは一頭の端綱をとらえながら、仲間を見上げた。 「ホーク、これはどうした?」 「何だ、俺の相棒を見忘れたのか。この流れ星を」 風渡りはあきれ顔で跨った一頭の額を示した。鼻のすこし上にひと筋、白い土をこすりつけたような模様がある。 「――ルセルを忘れちゃいないが。他の三頭はどうした?」 その横からアーシアは口をはさんだ。 「あの。これは何なの?」 「何?」 風渡りは大きな黒い目をこぼれそうなほど見開いた。 「こいつは、馬、だ」 わかるか、と言いたげにアーシアをのぞきこむ。 「まさか、乗れないなんて言うんじゃねえだろうな。そうなりゃ、俺たちはおしまいだぜ」 「乗れるわよ」 アーシアはむっとして言い返した。「イバ牛と同じようなものよ」 馬たちは人間にはおかまいなく、朝の遠駆けのあとの食事をはじめた。つややかな毛並みは朝の光のなかでまばゆいほど美しい。だが、浮き立つような気分は風渡りのおかげで半減してしまった。 アーシアは口をとがらせたまま草の上に座りこみ、初めて見る馬の癖を観察することにした。一方、男達はその前に知りたいことがあるようだった。 「いったい、どこで盗んだのだ?」 「どうやってルセルを町から連れ出した? 追っ手がかかるのではないか」 ティールとラシードは声をそろえて風渡りに詰め寄った。 「人聞きが悪いな。」 馬の背から滑りおりたホークは、うんざりしたように肩をすくめた。 「盗んだわけじゃねえよ。俺はルセルを呼んだだけだ。そうしたら、こいつの男っぷりにひかれて三頭もついて来たのさ」 「たまたま綱が切れていた、と?」 ラシードは馬の端綱を手にとり、ふらふらと揺らしてみせた。先端がすっぱり切れている。 「たまたま、な」 と、ホークはすました顔で言った。 「足がつくような真似はしねえよ。こいつを……」と、額に星をつけた一頭を示した。 「こいつを隊商に売ったのは宿屋の女だ。おあしを払えねえ貧乏な風渡りから分捕った馬だ」 「だが、宿屋商いで馬など持っていても仕方ないだろうが」 「そう。だからタジルを離れる商人に売っぱらったわけだ」 黙って聞いていたティールはいぶかしげに目を細めた。 「……よく知ってるな」 「ああ、よく知ってる」 そう答えたホークの顔はにやにやとして締まりがない。その言葉をどこまで信じていいのか、ティールは決めかねて眉をひそめた。 アーシアは服についた草をぱたぱたと払いながら立ち上がった。 「……ふうん。でも、『貧乏な』風渡りっていうところは本当なのね」 そう言うと腰に手をあて、ホークの顔を正面からのぞきこんだ。 「あなた、ほんとうは仕事が無いんでしょ」 「何だと?」 ホークはにらみ返した。だが、アーシアも気圧されまいと爪先立ちになって相手を見上げた。 「パルトの店で言い合いしたから、帰りの仕事が無くなった――そうじゃない?」 「だから、何だ。珍しいことじゃない」 「ほう、そうだったか」 ラシードは面白そうに昔馴染とアーシアを見比べた。「それで、妙に熱心だったわけだ」 「儲け話がなきゃ、自分で作るまでさ」 「儲けになるかしら?」 アーシアはにっこり微笑んでラシードを見た。「どういう話にするか、こちらで決められるんじゃない?」 ラシードの目が愉快そうにきらめいた。 「なるほど。考えてみてもよさそうだ」 とたんに風渡りの顔が苦くなった。「いやな野郎だ」 アーシアはつんとそっぽを向いた。だが、 「アーシア」 ティールがかたわらで呟いた。 「兄さまは黙ってて」 「――何か聞こえる」 硬い声音にアーシアはふり返った。「兄さま?」 ティールは地平線を見つめたまま身動きひとつしない。 「――ひづめの音だ」 その言葉を聞くやラシードは身軽に岩へ駆け上がった。が、すぐさま舌打ちして寄越した。 「ホーク、ついて来たのは馬だけじゃなかったようだぞ」 大地を蹴立てる低い音がアーシアの耳にも響いてきた。 遠く地平線にあらわれたいくつかの点――彼らは風を切り裂く勢いで近づいてくる。 「あれは、アルセナ兵だ」 「馬に乗れ!」 そう叫んだラシードは、あっというまに野営の荷物をひとくくりにまとめた。ホークの怒鳴り声、緊張した空気――それにおびえるように馬は前足で土を蹴立てた。 アーシアも自分の革袋をつかむと、一番近くに立っていた葦毛の端綱に手をのばした。だが、手が震えて綱をとらえそこねてしまった。 「アーシア、急ぐんだ」 「わかってる!」 どなり返すことで気力をふるう。もう一度綱をつかんで、あぶみに足をかけようとした。だが、馬は不器用な乗り手を拒むようにくるりと身をかわしてしまった。馬の横腹を追いかけて回りながら、アーシアは歯をくいしばった。 すでに馬上に上がったティールは見かねて手伝おうとした。しかし、事情はこちらも同じようなものだ。平衡を失って転がり落ちそうになったところをラシードに支えられた。 何してんだ、とホークの怒鳴り声に棘がまじる。 「気性のよさそうなのを見繕ってやったんだぞ。乗ってみやがれ」 アーシアはくやし涙が滲んだのにも気づかなかった。 「お願い」 葦毛の馬の目を見上げて、アーシアは震える声をしぼりだした。 「お願いだから乗せて。行かなきゃいけないの。背中に乗せてちょうだい」 白い、吹き流しの雪を思わせるたてがみが揺れた。褐色のぬれた瞳がこの言葉を吟味するようにまばたく。そして、ふいと顔をそむけると横腹を向けてきた。アーシアはあわてて馬の背によじのぼった。 ぶら下がっていた手綱をつかんだとたん、背後で叫び声が上がる。 「イール! 走れ、ラシード!!」 とたんにアーシアの横を風が吹きぬけた。薬師の馬だ。 それにつられて葦毛の馬も走り出す。放り出されそうになったアーシアはあわてて鞍の前にしがみついた。だが、一瞬だけ振り返らずにはいられなかった。 目に飛び込んできたのは五騎。 みるみる迫ってくる黒い馬、背にはおなじく黒い鎧姿がある。人馬が一体の獣に見えて、アーシアは身震いした。 |
46. | |
風になぶられ、草野原は悲鳴をあげて波打つ。 その波と先を争うように馬たちが走りぬけていく。それは嵐の前に点点と吹き散らされるちぎれ雲にも似ていた。 ラシードとアーシアの馬は、ゆるやかな丘ひとつ先へ離れていった。 だが、ルセルと呼ばれた黒馬とティールの灰色馬は遅れていた。野営の、アーシアたちとは反対側にいたために出遅れたのだ。仲間の後を追ったが、ひとつふたつ丘を駆け上がる間にはっきりと差がついた。 馬を急かして走り続けていたホークは幾度か背中をふり返った。やがて、舌打ちとともに手綱をひいた。 「間に合わねえな」 黒馬は言われたとおりに向きをかえて足をとめ、追っ手を正面にとらえた。ホークは腰の鞘から剣を抜いた。 白く光る幅広の刃に、並んで走ってきたティールは目を瞠った。慣れない手綱さばきで後ろを向けば、追っ手もまた同じものを握っているのが見える。 これから起こることを悟って、ティールは唇を引き結んだ。その間も、追っ手はじりじりと間合いを詰めてくる。もう、揃いの馬具も見てとれるようになった。 ティールは深い息を吐いた。 使いなれた弓を握ると、狩の時のように気持ちを静めて矢を番える。ほぼ正面に近づく姿に合わせて弓弦をひくと、きりきりという音が耳ざわりに高くなった。 狙いすまして放った最初の矢は効を奏した。追っ手の一頭が棹立ちになり、鋭いいななきをあげた。が、足並みを乱したのはその一頭だけだった。他は動揺も見せずに距離を縮めてくる。明らかに戦場を知る馬だった。 二矢めはかわされた。もう、矢を番えて間に合う距離ではない。ティールは狩の小刀をふところに探った。その横で剣をかまえ、今か、今しもかと間合いをはかっていた風渡りは怒鳴った。 「何してるんだ! とっとと剣を抜け!」 その叫び声に、アーシアとラシードははっと顔を上げた。 何かの合図と思ったのだろう、馬は足並みを落とした。ふり返ったアーシアが見たのは、遠く丘の上でまさに打ち組もうとしている男たちの姿だった。 「兄さま!」 叫んで馬の向きを変えようとした。が、横からのびたラシードの手が轡(くつわ)をつかんだ。 「放して! 助けに戻らなきゃ」 「だめだ」 薬師も声を荒らげた。「戻るな。足手まといだ」 アーシアはラシードをねめつけた。 「いや!」 「私が行く」 「助けて。だって……」 ふいにアーシアの顔がゆがんだ。 「――だって、剣なんて持ってないのよ!」 「走れ!」 アーシアの悲鳴と同時に、ラシードは葦毛の馬の尻に鞭をくれた。無体な扱いに怒り、馬はいななき駆け出した。 「――――!」 揺れる馬上でアーシアは鞍にしがみついた。 背後に響いていたひづめの音がみるみる小さくなっていく。吹きすさぶ風の音に抗ってアーシアは叫んだ。 「……って。止まってよ!」 それを解したのか、馬は駆け足をゆるめた。 イバ牛にするのと同じように、アーシアは馬の首を叩き、上半身を起こす。合図は通じたらしい。馬はゆるやかな早足になり、乗り手の動きに応えて大きな弧をえがいた。 ほんの半刻たらずの間に、馬はとんでもない距離を走っていた。小高い丘の上から振り返ると、野営していた岩がはるか小さく見える。 だが、目を奪われたのはその手前――四騎のアルセナ兵に囲まれている二人と、そこへ向かって馬を駆る薬師の姿だった。 アーシアは恐ろしさに歯が鳴るのも止められずにいた。 「……ハール。お願い、助けてください」 つぶやいた祈りは風にかき消された。 遠く、草の波のむこう。最初に倒れていた兵士が馬の背にあがり、ラシードの前方をさえぎるのが見えた。その向こうでは、兵らが風渡りとティールに斬りかかろうとしていた。 ラシードは兵とすれ違いざまに刃を振るい上げ、なぎ払う。鎧姿はくずれ落ちた。それを見届けもせず、ラシードは馬を駈った。 その先では剣戟が続いていた。 人も馬もいっしょくたになって争う黒いひと群れ――そこに白銀の刃が光った。その動きとともに一人が馬から振り落とされた。 その時、鋭いいななきが草原にあがった。 斬りつけられた灰色の馬が狂ったように跳ねまわっている。その背は空だ。 転げ落ちた乗り手はそれでも立って、何かを振るっていた。だが、その頭上で幾振りの刃が閃き、叩きおろされた。そこに抗う剣は無かった。 その只中へ、叫び声とともに緋色をひるがえす風渡りが躍りこんでいった。一人が振り向き、迎え討つ。防ごうとする剣は一打を受け止め、押し返す。風渡りは馬の背から吹き飛ばされるように落ちた。が、それだけで済ませはしなかった。 落ちざまに相手のからだも引きずり落とす。そして、草の上に転がった兵士が身を起こすより早く、風渡りの剣が突きたてられた。鎧姿はのたうち、やがて動かなくなった。 少し離れたところでは、一人の兵が騎馬から降りて、何かを馬上におし上げていた。最後に残った兵二人は何か合図をかわした。 そして、ふいに身を翻すと仲間の亡骸をふり返りもせずに走り去っていった。 薬師がようやく駆けつけたのは、その後だった。 「……」 見つめていたアーシアの喉からかすれた音がもれた。 「兄さま?」 かすかな息の音は涙と怒気にかわり、悲鳴になった。自分でも気づかないうちに馬の横腹に踵を押し当てた。葦毛の馬は今しがた来たばかりの草の上を走り出した。 清々しいはずの若草の上に、血にまみれた兵士の亡骸が残されていた。乗り手を失った馬たちはとうにどこかへ駆け去ってしまった。 だが、まがまがしい光景には目もくれず、アーシアは仲間のもとへ馬を駆った。 風渡りは真っ赤に染まった左肩を押さえて息をはずませていた。薬師も額から血があふれていたが、目には力があった。見た目ほどの深手ではないらしい。だが、辺りをいくら見回しても、もう一人の姿がない。アーシアは転げ落ちるように馬から下りると、薬師に詰め寄り、 「兄さまはどこ?」 泣きながら怒鳴った。が、ラシードは兵士が去った地平を見つめて動かなかった。 「どこにいるの。ねえ、答えて! どうして……」 言いかけて、アーシアは自分がすでに知っていることに気づいた。ふいに涙があふれて薬師の顔が見えなくなった。 「間に合わなかった」 薬師の声は地を穿つように低く、厳しかった。 「何……」その後ろで、呆然と座り込んでいた風渡りがつぶやいた。 「何を考えてんだ」 だが、その声は薬師とは別のことに愕然としているようだった。 「剣を持ってない、だと? こんなものひとつで……何をする気だったんだ」 アーシアはホークのもとに駆け寄った。こぶしをはがすように開かせる――握られていたのは、血にまみれた石鉄の小刀だった。 「遺体は持っていった」 「持って……?」 頭の中で薬師の声が渦を巻く。アーシアは震える手で石鉄を握りしめた。ラシードは血が流れるのを拭いもせず、残された娘を見下ろした。 「おそらく、エフタへ」 「どうして?」 「……」 ラシードは迷っていたが、とうとう口をひらいた。 「……長の死を。逆らえばこうなると村に示すつもりだ」 アーシアはぼんやりと薬師を見上げた。 いったい何のことだかわからなかった。だが、おぞましい言葉が意味を結ぶと、アーシアの目は見開かれた。風を裂く叫びがもれた。 「いや。……いやだ!!」 |
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