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風渡の野 42 | ||
47. | |
春の草原に強い風が吹き渡った。 とたんに陽光はかげり、みるみるうちに雲が天をおおった。のしかかるように垂れこめた黒雲が雨粒を叩きつける。草を殴りつけ、打ちたおす激しい雨に野の獣たちは追い立てられるように姿を消した。 そして、旅人もまた同じように身を縮めて逃げ出すことしかできなかった。 草原の中に染みのように広がる森。雨に打たれる枝々がどこまでも続いていた。黒く濡れそぼった葉からは際限もなく水滴が落ちてくる。 雨のせいでいつもより早い宵闇がおとずれたころ。そんな枝から布を吊るして張られた粗末な天幕に風渡りが入ってきた。 一歩入るや、中に立ち込めていた薬草の匂いにホークは顔をしかめた。 「いぶり殺す気か?」 煮え立つ薬湯の鍋に向かっていたラシードはその言葉に振りかえった。 「安心しろ、お前にはやらん。高価な薬草だからな。外はどうだった?」 狭苦しい天幕の中、ホークはラシードのよこに腰を下ろして、別の鍋から――こちらはまともそうな茶を椀に注いだ。 「追っ手はなさそうだな。ひどい降りで、足跡も血の跡も見えなくなった」 雨の中を歩いてきた身には熱いものがありがたかったのだろう、ぶるっと肩を震わせて派手な音をたてて椀をすすった。 「娘っ子はどうだ?」 「……」 ラシードは鍋をかきまぜながら、小さな炉のむこうに目をやった。 灰色の毛皮にくるまって、アーシアは眠っていた。寝息は荒く赤い顔をして、額には汗が浮かんでいた。 「熱がひどいな」 ラシードは鍋の中身の味をみて、火から下ろした。 「何日か前から、本調子ではなかったようだ。山から下りてきた者は大抵こうなる。暑さと湿気と、濃い空気に体がついていかない。町の物珍しさに興奮して気づかないで……何日かすると、ばったり、だ」 ふと風渡りの顔を見て、ラシードは言い継いだ。 「だが、心配はいらん。山の民は頑丈に出来てる」 「心配なぞしてねえよ。先を急ぎたいだけだ」 ホークは何故かむっとした面持ちだった。護衛していた者の死は、風渡りにとっては気概をそぐ出来事なのだろう。 炉のむこうで眠っているアーシアは、起きているときより幼く見えた。 兵士たちが去ったあと、草原は雷雨に見舞われた。 ラシードに追い立てられて、三人は森を目指そうとした。が、実際はのろのろといつまでもその場を離れられなかった。呆然と座り込んでいたアーシアが泣いて、もうどこにも行かないと言い張ったからだ。 ラシードがどうなだめても、その声すら聞こえないようだった。仕方ないので、泣くばかりなのをひきずるようにして馬の背に押し上げ、手綱を握らせた。しかし、その後何度もアーシアは馬をとめ、エフタへ帰ると言い続けた。 結局、森の梢の下にもぐりこんだ頃には、みんな体の芯までずぶぬれだった。アーシアはようやく泣くのをやめたが、薬師はその時になってアーシアの顔が真っ赤に火照っているのに気づいたのだった。 「傷を見せてみろ」 ラシードは相棒に顎をしゃくってうながした。ホークは顔をしかめたが、おとなしく外衣を脱いで肩を差し出した。 風渡りの粗末な上着は肩のあたりはざっくり切られて、血と雨でぐしゃぐしゃだ。ラシードは慎重に服をはがしてから、傷をあらためた。 「そう深くはないが」 「どうってことねえよ」 ホークは低くうなった。どうやら言われたとおりにしなければならないのが気に入らないらしい。体を触られるのも嫌なのだろう。ラシードが薬湯にひたした布をあてがうと、 「いてえっ!」 するどく叫んで身をひき、とっさに無事な方の右手で薬師を殴りつけようとした。が、そこはラシードも馴れたものらしい。軽く身をかわし、布を切ろうと待ちかまえていた小刀を下ろした。 「おとなしくしろ。手が滑って傷が増えるぞ」 「治すんじゃねえのかよ」 ホークはぎらぎらと恨みがましい目で昔馴染みをにらみつけた。 「てめえ、薬師だろうが?」 「そうだ。ハールではない。慈悲はそこそこしか持ち合わせていないぞ」 そう言って、黙々と軟膏をまぜあわせはじめた。ホークは観念して残りの薬を受け入れた。 ――そう、ハールではない。 ラシードは考えて、思わず眉を寄せた。 日が落ちてからも降りしきる雨のせいで、天幕の中はなかなか温まらなかった。だが、背中に寒気が這うのは、そのせいばかりではなかった。 神ではない。だが、人であっても気づいてよかったはず。 何故、風渡りに伝え損ねたのだ――山の民は人を殺す道具など持っていないと。それを知っていたのは自分ひとりだ。 ラシードは手にした薪の枝を折ろうと力をこめた。が、湿気をふくんだ枝はしなうばかりだ。 ウォリスにあわせる顔がないと思った。しかも、セディムとも約束したのではなかったか。何をおいてもエフタの遺児を守ると。そのために未知の危機と向き合うレンディアを置いて来さえしたのに。何年も山を離れて、すっかり平原の考え方に染まったかと思うと自分の愚かさに腹が立ってしかたなかった。 それと同時に、いいようのない不安も湧きあがってくる。 山に暮らす者たちは本当にはわかっていないのだ――平原の人間がどれだけ残酷になれるのか。 炉の向こうでアーシアが寝言をつぶやいた。 もうひとりの、旧友が残した若者のことを思い出してラシードは口元を引き締めた。 濃く青い――。 晴れわたった空が、アーシアのまぶたに映っていた。太陽と真っ白な雲があまりに鮮やかなエフタの風景。 草の上に寝転んで、低い空を眺めるのは何よりしあわせなひとときだ。もうじき、小言とともにメリナが呼びにくるだろう。それとも兄だろうか。待ちながら、ついうとうとしてしまう。すると、すぐそばから声が聞こえた。 「アーシア、もう城に帰らなきゃ」 驚いて目を開けると幼い少年がアーシアの上にかがみこんでいた。明るい目とはにかんだような表情は見覚えがある。 「……兄さま?」 呼びかけると少年は駆け出した。その先、ヒラ麦畑の金色の向こうに髪を高く結った女が立っていた。見知らぬ、だがどこか懐かしい。アーシアはぼんやり呟いた。 「母さま」 とたんに強い峰風が吹きぬけた。冷たく厳しい山の風、その中にかすかな詠唱が聞こえる。葬送の祈りだ。 ―― 我らの父なる神よ。ここにあなたの子が眠っております。 ―― どうぞ天より降りてこの手をとり、あなたの庭へとお召し下さい。 青空を背にそびえるハールの峰。その雪の白が目を射抜く。あまりの眩しさにアーシアは目をつむった。脳裏に真っ赤なものが閃いた。 血が流れていた。 城の前、畑の石垣、小道。いたるところに村人が重なり倒れていた。男も女も、子供さえも。背中を、腹を黒く染めて身動きもしない。まるで、奇妙な形の岩のようだ。 さらにその先に、影のような鎧姿があった。幾度も振り上げられる剣、その下にくずおれる姿を見てアーシアは走り出した。だが、体が重く前に進むことができない。 足はもつれ、踏み分ける草の葉がするどい刃で切りつけてくる。アーシアの口から悲鳴がもれた。 「……兄さま!」 |
48. | |
「やめて!」 「アーシア殿、しっかりなさい!」 叫んであがいたアーシアの腕が薬師に握られた。 天幕の中は埋み火の他は何も見えない、真夜中だった。アーシアは息をはずませ、眼を見開いた。それをラシードは正面から覗き込んだ。 「ただの夢だ」 だが、アーシアはふらつきながら身を起こし、ラシードの腕を払った。 「いや……もう、どこにも行かない。エフタに帰る」 そう口に出したとたんに、涙があふれた。 「今はだめだ。帰るわけにはいかない」 「どこにも行きたくない。いやだ、いやだ……もういやだ!」 「落ち着きなさい!」 ラシードはアーシアの肩をつよくつかんだ。「あなたが山を降りたから、タジルを出てきたから、こうなったわけじゃない」 アーシアは息をのんだ。「…………だって。そうかもしれない」 細くつぶやいたアーシアの頬に涙が伝った。薬師は断固と首をふり、小さい肩に乾いた毛皮をかけてやった。 「くだらないことを言うものじゃない。そんな風に考えてはいけない」 そう言うと、覚ましてあった薬湯の椀を手にとった。 薬師がつくったのは小王国で飲まれている薬湯だった。他にもっと効きめのある、平原の薬草も持ってはいた。だが、今のアーシアに必要なのはそれではない。 アーシアは促されるままにぬるく甘い湯を口にふくんだ。すっと鼻にぬけるような匂いがする。それは、子供の頃から馴染んだ味だった。 ふいに目の奥が熱くなって、アーシアはもう一度頬をぬぐった。こんな風に毛皮にくるまれて、父に薬湯を飲ませてもらったことが思い出された。 「横になって。眠りなさい」 その言葉にアーシアはおとなしく従った。 夢と現実を行き来する、長い夜が明けた。 いつのまに目覚めたのだろう。気がつくとアーシアは、天幕におちる枝葉の影と木漏れ日をぼんやりと見上げていた。天幕の中には薬師も風渡りの姿も見えなかった。 「のど、かわいた」 かすれた声にアーシアはぎょっとした。自分の声とは思えなかった。 まだ体は重く、手にも力が入らない。ひと苦労して身を起こすと、傍らの椀をおぼつかない手つきで取り上げて喉を潤した。 人心地つくと、アーシアは新しい空気に触れたくなった。よろよろと天幕から這い出て――そして目の前の風景に思わず息をのんだ。 外はすっかり雨があがっていた。 梢のむこうには太陽が輝いていた。春の草の匂い、梢や若葉をふちどる露が森をきらきら輝かせている。木の幹を這う蔓の上には甲虫が玉虫色の翅をひろげ、呼吸するようにゆったりと動かしていた。 青空へのぼっていく鳥のさえずり。その声がふいに途切れて、森の中を風が吹きぬけた。梢と梢が打ち合わされて、幾千もの水滴がアーシアの上に降りそそいだ。淡い虹が枝々の間に渡されては消えていった。 「……」 アーシアは瞬きするのも忘れていた。 腕を上げて飛沫をよけながら、詰めていた息をもらした。しめった空気には雑多な匂いが満ちてむせ返るようだ。光と色がうごめき、溢れ、押しよせてくる。山ではこんなことはなかった。 「起きられたか」 ふりむけば、ラシードが水の入った皮袋を手にやってくるところだった。 顎鬚がもつれて、目の下には隈ができている。全体にくたびれた様子だ。考えてみれば、薬師はタジルを出てからろくに眠っていないはずだった。 アーシアは夕べうなされたことを思い出して、思わず頬が熱くなった。 「あの、もう大丈夫。きのうはごめんなさい。子供みたいだったわ」 「何の」 ラシードはからからと笑った。「殴りかかったりしない、性質のいい病人だ」 天幕へ入ると、薬師はアーシアの額に手をあてて満足したようにうなづいた。 「かなり良いようだな。念のため、もう一杯薬を飲むといい」 「ホークは? どこに行ったの?」 「街道の様子を見に行ったようだ。リドへ向かうなら、もう一度街道へ戻らねばならない」 「リド……」 アーシアは薬湯の椀――夕べのものとは違って強い匂いがした――を受取りながら、平原の地図を思い出した。カバラス山脈にも近い小さな宿場町は、レンディアからの迎えを待つのにうってつけだ。 (だけど……) 何かが心にひっかかって、アーシアは眉を寄せた。そして、腰袋の底から石鉄の鏃を取り出した。レンディアの長から餞別に渡されたものだ。それを掌に転がして考え込んだ。 先端の鋭さ、均衡のとれた力強い形、重心の位置――いずれも作り手の腕の確かさを証している。だが何故か、今はその脆さが思われて仕方なかった。 石鉄はそれなり丈夫なものだが、力のかかる方向によっては割れてしまうこともある。小さな鏃は、タジルの市に並んでいた鉄の鏃と比べると頼りなく見える。また、それを手渡してくれた大きな掌――肉刺も固くなった山の民らしいセディムの手も思い出された。 (レンディアの長だもの。狩や山のことはよく知ってるでしょう。でも、何でもわかってるわけじゃない) 今の自分にできるのは、本当にレンディアを頼ることだけなのだろうか。 ――行く道を見失うことのないように。 ふいに父がくれた言葉がよみがえって、アーシアは唇をかんだ。 いったい、どこへ行けばいいのか。何をしなければならないのか。そして、父から兄への言葉は、今は自分が受け継ぐべきではないのか――。 アーシアは苦い薬湯を一息に飲み干した。熱の名残で、まだうまく動かない頭をはっきりさせたかった。 と、そこへ口笛と草を踏み分ける音が近づいてきた。 「おい、運がついてるぞ」 今にも笑いだしそうな上機嫌で帰ってきたホークは、入り口の布をはね上げて天幕へどかどか入ってきた。 アーシアには目もくれず、炉のそばに腰を下ろすと固パンに手をのばす。それを割る手間も惜しいようにかぶりついて、食いちぎった。 「セラからアルセナ行きの荷が出るらしい」 「今年の初荷、だな」 「ああ。セラは町中ごったがえしてるそうだ」 そういうと、風渡りはこらえきれなくなったようにくつくつ笑った。 「そのせいで、セラに向かう商人どもは足止めをくらってる。リドも南の宿場も人でいっぱいだ」 ラシードは眉を寄せた。「人目につくのは困る」 「何言ってる。隠れるなら人ごみの中が一番だろうが」 ホークは勢いよく手をはたいてパン屑をはらった。 「うまい飯屋を探してえなあ。しけたパンなんぞ二度と真っ平……」 「リドには行かないわ」 その言葉に、風渡りの笑顔が固まった。 「…………何?」 天幕の中に奇妙な沈黙がおりた。アーシアは空の椀を置くと二人に向きなおった。 「レンディアからの迎えを待つことはしないわ。南へ行きましょう」 今度はラシードもいぶかしげに目を細めた。 「だめだ。エフタの状況がわからなければ、山へ帰ることができない」 だが、アーシアは首を振った。 「早くここを離れなきゃ。アルセナ兵は私の姿も見たのだもの。ぐずぐずしていたら、また追われることになるわ」 「だが。南といっても、どこへ?」 「イベリスへ行きたいの」 ホークとラシードは顔を見合わせた。 「地図を見せてくれたでしょう。小さいけれど豊かな国だって、アルセナにものを言えるような力を持っているって。それなら、そこへ行くのが一番いいと思うの」 「イベリスに身を隠すと?」 アーシアは頭を振った。 「エフタを助けてくれるようにお願いしに行くわ。長として」 ラシードは目を瞠った。 「長として? あなたはレンディアの長妃に――」 「それはお断りします。もう、長ご本人にも伝えてあるわ」 アーシアは耳飾りをはずした。青い花が咲いたような丹念な細工が美しい石の飾りだ。それをのせた掌を風渡りへのべて、 「ホーク。これで、あなたを雇うわ。私をイベリスまで連れて行ってちょうだい」 アーシアは風渡りの顔を瞬きもせずに見つめた。 風渡りはといえば、ぽかんとして差し出された飾り石を見つめ、やがて笑いだした。 「『雇う』かよ。娘っ子のくせに」 何がおかしいのか、腹をかかえてひとしきり笑った。 そのあと、笑いすぎた涙を拭いながら、ホークは立て膝の上に頤をのせてアーシアをのぞき込んだ。日に灼けた顔の、黒い瞳に光が閃いた。 「トルパまで。それで、石片方だ」 と、アーシアの手から耳飾りをひとつひったくった。 「ただし、片方じゃ使い道がねえからな。途中でやめるなら、そこで残りもいただく」 「やめたりしないわ」 アーシアは口元をひきしめた。 呆然としているラシードを見て、アーシアはもう決めたからときっぱり告げた。それでも、ふとためらいながら言い足した。 「――もし、山へ帰られるのなら引きとめないわ。あなたはレンディアの人だもの。あなたが尽くさなければならないのは私ではなくて、セディム様でしょう」 だが、これにはラシードははっきり首を振った。 「その長から頼まれたことです。自分に仕えるように、エフタの長に仕えてくれ、と。それを引き受けたのだから、一人帰るわけにはいかない」 日が天頂ちかくのぼった頃、三人は馬に鞍をおいた。出立にはおそい時間ではあったが、少しでも先に進んでおきたかったのだ。 アーシアは葦毛の馬にユール(雪の峰)と名づけた。 そして、名をつけたのに別れねばならなかったイバ牛を思い出して、胸がしめつけられるような気がした。だが今は、いつかかならず迎えにいくから、と心の中で語りかけることしかできなかった。 身支度をととのえてから、アーシアとラシードは濃い茶を椀に注いだ。 まずは蒼天にむかって数滴振りささげて、遠いイベリスまでハールの加護あることを祈る。それから、一気に飲み干した。 そんな出立の儀式をホークは物珍しそうに眺めていた。この風習は、平原ではとうの昔にすたれてしまったらしい。 アーシアはユールの毛並みをなでながら、その背によじのぼった。 ――泣いて、立ち止まっているわけにはいかない。 背筋をのばし頭をまっすぐ振りたてた。 外衣の裾をひっぱって整えると、腰の袋が揺れた。そこには掻き刃物、鏃、そして春の使者がはずした山の印旗が入れられている。 そのすべてが、雪嶺の国へかならず帰るという約束そのものだった。 |
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