42 風渡の野 目次 44


風渡の野  43 
1.
 雪をいただく峰々が朝焼けをうつして紅に染まっていた。
 山腹のレンディアはまだ黒く冷えきった影の中に沈んでいる。城の露台に出たレベクとオルドムは空を見上げて顔をしかめた。
「今日もこの空か」
 この数日、山は毎朝おなじ奇妙な赤い色に包まれた。鳥の声もなく、耳を刺す静寂は何かを待っているのかのようだ。時おり、吹く風は肌を粟立たせる。
「いやな風だな」
「ああ、よくない」
 とオルドムもつぶやく。「これでは峰送りができない」
 交渉ならずの知らせと、痛ましい姿の亡骸が村に帰ってきたのは昨日のことだった。
 村人らの嘆き声に迎えられた使者たちのからだは、今は城に安置されている。本来なら、弔いの儀式はすぐに行われ、死者はハールの庭へと送られなければならない。そこでは父神のもとでの新しい命が待っているし、彼らのかわりにハールは新しい赤子を村に授けてくれるからだ。
 だが、氷の原へ亡骸をおくる儀式は先延ばしにされた。
 峰からの風はどこか不穏であったし、戦の準備に村中が浮き足立っていた。それに、モルードたちの姿はあまりにむごかった。山の民の誰も、こんな屠り方を見たことがなかった。
 弔いの儀はいつにもまして丁重に行われなければ、残された者の心も癒されまい。城臣の言葉により、峰送りの葬列は戦いのあとで、と決められた。
「早く、ハールの許へ送ってやりたいのだがな」
 オルドムは呻くようにつぶやく。忌まわしい殺され方をした亡骸をそのままにするのは、その身を泥の中に置きさらしておくように思われてオルドムはたまらなかった。その肩をレベクは幾度も叩いて、
「もう少しだ。もう少し待ってもらおう。モルードは気の長い奴だったからな」
 そう言うと、何ともいえない顔つきになった。
「……奴なら、きっとわかってくれるだろう」
 そして、怒りをかみしめるように無言で、二人は城へ入っていった。


 その城の基部にある厨房は、すでに戦場のようになっていた。忙しく立ち働く女たちの声が重なり、スカートの裾がくるくると回る。
「麦粉が足りないよ」
「焼いたパンを並べて。よく冷やして乾かすんだよ」
 いつもと変わらない慌しさだ。だが、その底には苦い思いが沈んでいた。
 戦になる。城臣からそう告げられると、女たちの間には不安が広がった。戦がどんなものかもわからないから、なお気が滅入りそうになる。
 だが、怯えてばかりもいられない。腹がからっぽのままで男どもを行かせるわけにはいかないよ、と女たちは威勢よく励ましあい、交替で城へきては食べ物を支度した。
「ライナ!」
 ごったがえす厨房の中、隅の方で麦粉をこねていた若い――十七、八の娘が目を上げた。扉の陰から同じ年頃の娘が顔をのぞかせ、手招きしている。
「スレイがいたわ。はやく、はやく!」
 ライナは勢いよく手をはたいて粉を落とし、かたわらの籠をつかんで厨房から走り出た。
 石壁の廊下は薄暗く、窓から差し込む朝の光が四角いかたちを床に描く。その奥の階段に、ちょうど人影が消えようとするところだった。
「――スレイ!」
「おう。何だ、お前か」
 山道の見張りから戻ってきたばかりらしい。スレイの目は疲れで真っ赤になっていた。ひきずるように歩く足をとめて、ライナが追いつくのを待っていた。
「これ、城臣の誰かに渡してちょうだい」
 と、ライナが息をはずませて差し出した籠の中は、小さな花や若葉でいっぱいだった。
「皆で摘んだの。使者たちの体にかけてあげて欲しくて。つまり、その……」
 言いよどんだ先を思って、スレイは眉をひそめた。
 首を落とされた使者たち。その死を、村はどう受けとめればいいのだろう。傷に花をそえてやれば、少しは痛みもやわらぐのだろうか――彼ら自身も、残された者も。
 スレイは籠を受けとると、草臥れてかすれた声で答えた。
「わかった。家族も、長も喜ぶだろう。だが……。いったい何のための使者だったんだろうな」
 ライナははっとして幼馴染を見上げた。スレイの瞳は抑えきれなくなった怒りに震えていた。
「何故、あんな風に死ななければならない? 最初から戦えばよかったんだ。天幕などではなく、弓矢でもって要求するべきだった」
「スレイ! それは長が決められたことでしょう」
 ライナはあわてて声をひそめた。
 村は長にしたがうものと教えられて育ったし、幼馴染だからセディムのすることを信じている。だが、幼馴染だからこそ、彼女はスレイの性格もよくわかっていた。怒りを宥めるように、
「戦を避けられるならと思って……」
「それは、相手が聞く耳を持っていての話だ」
 しかし、スレイはぴしゃりと言った。
「奴らにそんなつもりはない。エフタへの仕打ちをきけば、最初からわかっていたはずだ」
 そうして、昂然と胸を張った。「俺たちはひるまず戦うべきだった。それこそ皆の望みなんだから」
 ライナはぽかんとして、スレイを見つめた。
「…………あなた、言うことがおかしいわ」
「何?」


2.
 ライナはもどかしそうに言葉を探した。傾げた首元に飾り石がゆれる。
「うまく言えないけど……。まるで遠くの山ばかり見ているみたい。足元の石につまづいたら、そのままどこまでも転がり落ちて行きそうだわ」
「何のことだ?」
 スレイの目がきつくなった。
「戦いたいなんて、誰も考えてないはずよ」
「お前は悔しくないのか?」
 この言葉に、ライナは目を瞠った。
「そんなわけないでしょう!!」
 スレイはぎょっとして、手にした籠を落しそうになった。ライナが声を荒らげるなどめったにない。
「そんなわけないでしょう」
 その目から涙がこぼれた。やり場のない気持ちがあふれたのだろう、苦しげに口元を抑えた。
「……ライナ。悪かった」
「スーシャが今どうしているのか、考えたことはないの?」
「考えたさ」
 スレイは苛々とこぶしを握ったり開いたりした。
 ライナの姉はスレイにとってもなつかしい遊び仲間だ。エフタに嫁いで何年にもなるが、子供のころの笑顔と声は今もはっきり思い出される。
「俺だって心配している。だからこそ、戦わなければいけないんじゃないのか? 放っておけば、奴らはスーシャを返してくれるのか?」
「違うわ。そうじゃなくて……」
「奴らが何を考えているのか。それはモルードが教えてくれた」
 身をもって、とスレイは苦い声で言い捨てた。
「使者が得たのはそれだけだ。――ライナ」
 スレイは幼馴染の肩に手をおいた。「平原の奴らに、山をいいようにはさせない。小王国の誇りが問われているんだ」
 だが、ライナは答えなかった。
 不意に、廊下の奥に子供の高い声が響いた。
「スレイだ! ねえ、にんぎょうは?」
 スレイははっと顔を上げた。
 駆け寄ってきたのは、このあいだ木彫りをつくってやると約束した少女だった。彼女は半分泣きながらスレイの帯にしがみつき、ぶら下がった。
「にんぎょう! にんぎょう作ってよお」
「――ほら。早く行ってあげなさいよ」
 そう微笑んだライナの目はどこか哀しそうだった。「……わよ」
「なに?」
 子供の泣き声にかき消された言葉を、スレイは尋ねた。その瞳を見つめながら、ライナはしずかにくり返した。
「あなたは、戦なんてできないと思うわ」


 その日一日、城には石鉄を打つ音、人の声が絶えなかった。
 部屋部屋には男たちがこもって矢柄を削り、弓弦を張りなおしていた。ある者はイバ牛革の投石帯をやわらかく調えていた。
 その様子を、セディムとヤペルは一日じゅう見て回っていた。戦支度を確かめるというより、それぞれの顔を見たいとセディムが言ったからだ。
 誰もが黙々と手を動かしていた。ときおり目を上げて長の姿をみとめると、手にしたものをかかげて見せた。弓、矢、石鉄を打つ槌。そうやって戦う意気と長への信頼を示しているのだ。だが――。
「ヤペル」
 石の廊下に足音を響かせていたセディムは立ち止まり、呆れたように城臣をふりかえった。
「その顔はどうにかならんか」
「は?」
 黙って長のあとを歩いていたヤペルは考えごとから顔を上げた。
「不安が丸わかりだ。なにも笑えとは言わないが、胸のうちが顔から読めるようでどうする」
 この長の言葉に、ヤペルは心底むっとしたようだった。
「いったい、何を案じているとお思いか?」
「さて、な」
 心ここにあらずのセディムの返事に、ヤペルは目を剥いた。
「あなたが行くことを案じているのです」
 思わず声がきつくなった。だが、セディムは気にした様子もなく、長衣のすそを翻して歩き出した。
「こんな時に、長が皆と行かなくてどうする。狩へ行くと思えばいい」
「狩ではない」
 ヤペルは苦々しく言った。後を追う足音は思わず鋭くなった。
「天幕の使者への仕打ちはご覧のとおり。あれが平原の人間のすることです。いや――」
 ごくりと唾をのんだ。「人とは思えぬことをする。あれが、戦というものでしょう」
「長は城に隠れていろというのか?」
「何かあったら、レンディアはどうなりますか。アーシア殿を寡婦にするおつもりか?!」
「縁結びの儀式もせず、寡婦になるわけもないだろうが」
 だが、さすがに軽口が過ぎたと思ったらしい。ふと足をとめると、セディムは真顔で城臣の目をのぞきこんだ。
「……ヤペル。城臣の皆が気を揉んでいるのは知っている。だが、我儘で行くのではない。必要になるかもしれないからだ」
「必要とは?」
「……」
 村へ戻って以来、セディムのなかに脈打っていたのは、自分への怒りだった。自分の甘さが使者の命を奪った。そのことに対する後悔だ。
 人の死はハールが決められること――信心深い者たちはそう言って、セディムを責めもしない。だが、使者の死のどこにハールの意思があるというのか。セディムには、どう考えても愚かな決断のなれの果てとしか思えなかった。
(今も戦など望んではいない。だが、そう思うことも赦されないなら、腹を決めるしかない)
 ただ、ひとつ心にかかることがあった。
「セディム様!」
 広間から急ぎ出てきたのは、狩人たちのまとめ役アデルだった。石鉄の細工をしていたのだろう、赤ら顔がいっそう暑そうに汗をかいている。
「矢はいつもの狩の三回分ほどは出来上がっとります。これだけあればよかろうと思いますが……どうですかな?」
 アデルは眉を寄せて長に尋ねた。手練れの狩人でもこればかりは計りきれないようだ。セディムはうなづいてみせた。
「矢はもう充分、だろう。そろそろ皆に休むように言ってくれ」
 これは、半分は嘘だった。いったいどれだけ矢を放つことになるのか、誰にもわかりはしないのだ。だが、アルセナ兵が突きつけてきた降伏の期限はせまっている。狩人には休息も必要だった。
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