Novel
木の花染め  
 桜の命は、枝にある

 枝? 花ではないのですか?
 そう問うた息子を、父は憐れむように見下ろし、ふと目をそらした。
 花が咲けば、そこにもう命はない。
 残るのは生きていたという、名残の色だけだ。


 畳に置かれた奇妙なものと、男は向かい合って座していた。
 瘤だらけにあちこちを縛られた、布のかたまり。悪鬼が落として行ったかと見まごうような、薄気味悪い形。
 それを志光(しこう)は手にとって、糸目に鋏を入れた。
 瘤がひとつ、ふたつとほどけると、花びらのような白が薄紅の中に浮かびあがる。
 ―― 木の花
 志光は見つめ、それから一心に糸を引きほどいていった。

 長かった。
 幾年も、この桜染めのために若ぶりの枝を探し、望む天候の年を、ただ待ち続けた。
 花が咲いてからでは望む色は得られない。だが、花の前に枝を落としてよい、などという酔狂な者はめったにいなかった。
 我侭とすら見える染色家を、嘲笑う者も多かった。それでも、色を咲かすが我が生業、と諦めることはせず、ようやくこの春。
 志光は枝を煮出した大釜に、絞りを施した布を沈めたのだ。

 畳に広がる絹には、一面の桜吹雪が絞りで描かれていた。
 長らく心に思い描き、憧憬を抱いてきた桜の命が、今、目の前の絹地にしっとりと染められている。かすかに灰みをふくんだ照りのある色に、志光は頷いた。

 願っていた、生きた桜の色だった。


「ちょっと出てくる」
 あれ、こんな時間にどちらまで、という女中の声を背中で聞いて、
志光は木戸をくぐった。
 外は花冷えの夜だった。風に身を縮め、風呂敷包みを抱え直して、志光は薄く笑った。
 確かに、こんな夜更けでは仕立て職人も驚くだろう。
 しかし、志光は一刻も早く、この絹を着物に仕立てたかった。風に舞い散る桜を、衣桁に上げてみたかった。
 奇妙なものだ。
 山里の夜道を辿りながら、志光はふと思う。何年も枝を探し、皮を剥いで煮出した。切り株は燃やして灰汁(あく)をとった。そんな手間をかけたというのに。いや、それどころか。
 絹地に無数の花びらを縫い絞っていた間すら、こんなに先を急ぐ気持ちはなかった。
 あなたはそうね。
 不意に、妻の声が聞こえた気がした。
 ご自分の手の届かないことに、我慢ができない性質なのでしょう。
 そう言って、目を伏せた。あれは不思議な女だった。
 その時、志光の頬にひやりと何かが触れた。子を生して去った妻の指が思われて、手をやると。それは、ひとひらの花びらだった。
 思わず気配に振り向くと、そこに志光を呼ぶ姿があった。慌しい昼間なら気づかず通り過ぎたかもしれない。人も忘れた朽ちた庭に、立っていたのは桜の古木だった。

 黒い山、黒い空。夜風にざわめく木立に弦月がかかる。
 その薄明かりに浮かぶ花に、引き寄せられるように志光は立った。齢を重ねてひび割れた幹を手でなぞる。
 差しまねく腕のような枝といわず、幹といわず吹き出した花。その姿は、どこかあわれであった。志光が色を取り出そうとは思わない桜だった。
 夜が更ける、道を急ごうと志光が振り返った、その時。
 一陣の風が吹いた。
 風は花房をほどき、散らせ、志光をのみ込む。その渦に息も吐けず、彼は目を瞠った。

 ―― 何という 花の色だろう

 何とひきかえにしても惜しくはないと、願い続けてきた色がそこにあった。


 欠けるところも、人の手が足すべき何もない、花の命の鮮やかさ。
 志光はそれを暗然として見上げた。手にした包みは重かった。 裏に表に身を返しては散っていく命の前に絹はもはや澱んだ色としか思われなかった。
 憧憬と、失意と、降りしきる花は息苦しく、胸を掻きむしらずには居られない。それでも彩の舞う形を捉えようと、目を見ひらき、耳を澄ませて志光は立ち尽くしていた。

 その夜の桜はやむことなくこぼれ散り、
 何もかもをうずめ尽くすかのようだった。





 夜闇に沈む枝、浮かぶ花房

 その色が、非の打ちどころのない美しさが志光を苛んだ。
 花の前に枝を折り、命を奪って染めた布の未熟な色が厭わしかった。

 桜は咲う。
 絹はうつろい、やがて褪せる。

 この桜染めの色を、人は賞美するだろう。
 瀧村 志光のあの作品、と呼ばれるようになることは自身も知っていた。だが、この夜の降りしきる色を、志光は終生忘れることはなかった。

 生業は、生きる業(ごう)とは言い得たもの、と染色家は後にわらって語ったという。


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あとがき
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