真冬の光  第一部 晩夏 1章-1 真冬の光 目次 1章-3
 
第一部 晩夏
一章 夏の終わり - 2


(二十年……いや、もっと昔になるか)
 急な山道をふみしめながら、男は額の汗をぬぐった。
 古びてぼろぼろになった外衣の間から、これも埃だらけの上衣がのぞく。男は重い足を休め、登りゆく先の白銀の山並みを仰いだ。
 夏でも雪をいただく、神の住まう峰々。その膝元に、彼の故郷はあった。
 ひさしぶりに見上げる山も空も変わらない。村もそこでの生活もきっと昔のままだろう。そして、荒くはずむ自分の息に気づいて男は苦笑した。
「変わったのは、俺だけか」
 それでは、この身を故郷は迎えてくれるのだろうか――そう自問して、男はまた歩き出した。
 人里離れ、鬱蒼とした木々を縫って歩いていたのは六日前。今では立ち木は姿を消して、かわりにあるのはひねこびて瘤だらけの潅木だけだった。高い雪の峰からの吹き降ろしに屈して、下へ下へと身をよじっている。
 山から逃げ出そうとするかのような枝ぶりに、男は指を這わせた。ざらりとした乾いた感触に、ふいに身のうちに震えがはしった。
 ――本当に、帰ってきたのだ。
 男はふたたび石だらけの道をのぼりはじめた。

 その見慣れぬ姿に最初に気づいたのは、村の若者だった。
 レンディアの中で最もはずれ、東の端にある野菜畑を収穫していた彼は、紫に熟した実の間に見慣れない旅人をみつけた。
「おおい」
 立ち上がって、声をあげた。「どこから来た?」
 山道に目を落としていた旅人は顔をあげた。その表情が一瞬、緊張したのを見て、若者もつい身を固くした。
「見慣れない服だな。ふもとのオロの人かい?」
「いや」
 旅人は足をとめた。「……ここ、レンディアの生まれだ」
 これを聞くと、若者はむっとして、
「嘘つくな。会ったこともないぞ」
「俺がここを離れたのは、お前さんが生まれる前のはなしだ。どうか、城へ取り次いでくれ。先の長のケルシュへ」
「ケルシュ殿は、今も長だ」
「何と。では、奴はまだ頑張っているのか」
 長を「奴」呼ばわりされて、若者はうさんくさそうに旅人を眺め回した。その顔色にきづいて、旅人は背筋をのばした。
「では、城の長へ取り次いでくれ。アルドの息子、ラシードが帰った、と」

 古びた灰白色のレンディアの城。その曲がりくねった廊下をラシードは歩いていた。
 昔と同じ壁掛け、明かり取りの小窓などを見るうちに、みるみる記憶はよみがえってきた。何を見ても懐かしかった。そして、胸の奥が突かれたように痛む。どれだけ長い間ここを離れていたのか、思い知らされたからだ。
 目指す部屋の前でラシードは足を止め、いっときためらった。だが、腹を決めて木の扉を叩くと、すぐに応えがあった。
「入れ」
 待っていたのは、ラシードと同じ年恰好の男だった。よくできた弓を思わせる痩躯で、ゆったりとした上衣は美しい刺繍のほどこされた長の衣だった。
 ラシードは汚れ、ぼろぼろになった外衣のままで頭を下げた。
「小王国の上に、ハールの恵みの豊かにあるように。マレクの子、アルドの息子ラシードがただいま戻り――」
 だが、古い挨拶の言葉はするどい声になかばで断ち切られた。
「馬鹿者が」
 ラシードがはっと顔をあげた。長も椅子から立ち上がった。
「誰もがとうに死んだと思っていた。何故、こうも遅くなったのだ。二、三年と言い置いて出ていったのは、どこのどいつだ。……ラシード!」
 長は衣が汚れるのもいとわず、友人の肩をつかんだ。
「生きていたのか……!」
 ラシードは呆然と、揺さぶられるままになっていた。
「ケルシュ」
 懐かしい、あまりに懐かしい友人の顔は昔と変わらなかった。皺ができ、こめかみに白いものが混じってはいる。だが、晴れやかな目にやどる温かさは別れた頃と同じだ。
 ラシードは目を細め、まぶしそうに幼馴染を見つめた。
「――許してくれ」
 そう言った友人をケルシュは不思議そうに見、それから気恥ずかしくなったのか、謹厳な長の顔に戻った。
「旅の間のハールのご加護に感謝する」
 そう言いながらラシードの頭を両手で支えるようにして、額を合わせる。長だけが授ける祝福のしぐさだった。
 その時、城の外から重いひづめの音が響いてきた。ラシードは窓へ歩み寄り、山道を見下ろした。
「誰か山から下りてきた。狩人だが……」
 と、いぶかしげに長を振り返った。
「獲物は見当たらない。今の時期の狩から空身で帰るとは、面白くない話だな」
「一人か?」
「ああ、ずいぶん若い。十四、五というところか」
 それを聞くと、ケルシュはそっとため息をついた。
「そんなことだと思った。息子のセディムだ。じきにここへ飛び込んでくるぞ」
 もの思わしげな長の様子に、ラシードは目をすがめた。
「何事か、わかっているのか?」
「ああ」
 長は心ここにあらずという風情だ。「察しはつく」
 その言葉が終わらないうちに階段を駆け上がる足音が響いた。
「父上!」
 長の予言どおり部屋へ飛び込んできたのはセディムだった。
 弓こそ置いてきたようだが、狩衣は土埃と草がついたままだ。力強い若者の声に、いつもは静かな長の間は急に明るさをおびた。
「父上。何故、刈り入れを命じたんですか? この穂の色を見て下さい。まるでリスのしっぽのような頼りない……」
 そこでセディムは息をのんだ。長だけだと思っていた部屋にもう一人知らない顔があるのに気づいたからだ。
「失礼しました」
 セディムはあわてて客人への非礼を詫びた。
 見慣れないいでたちの男はラシードと名乗った。若者の失態など気にしていないようだったが、ケルシュは厳しい目で息子をたしなめた。
「セディム、いずれ長になろうという身で落ち着きのないことだ」
 その言葉に客人は長をちらと見たが、何も言わなかった。
「すみません。でも……」
 セディムは客人の手前、言葉を飲み込みかけた。が、収まりきらない言葉がこぼれた。
「今、刈り取ってしまっては長い冬を越せません」
「なぜ、冬が長いと思われた?」
 長より早く、男が尋ねた。セディムは彼を見つめた。
 どこか面白がっているような太い声。年は父と同じくらいだが、もっと剛毅とでも言おうか。面立ちは似たところがある。
 父が雪を被った鋭い峰なら、この客人は同じ峰の夏の姿というところだ、セディムは考えた。底にあるものは同じ、そんな気がした。
「獣たちは葉月の初めから食べ物を蓄えていました。それに今日、地リスの巣穴を見つけましたが、あんな深いのは見たことがない。優に二幅はありました」
 そして、セディムは長に向き直った。
「残りの麦の刈り入れを止めさせて下さい。あんなに少なくては春まで持ちません」
「話はわかった。だが、刈り入れの日を決めるのはわたしだ」
 長はセディムの口ごたえを厳しい目で制した。
「父上!」
「それより、明日の狩の支度を整えなさい。それがお前の役目で……」
 だが、その言葉も終いまで口にされなかった。セディムは苛立ちを隠しもせず、客人に一礼すると部屋から飛び出した。
 階段のわきで、セディムは城臣のトゥルクとあやうくぶつかるところだった。痩せてすぐによろけそうな体格なのだが、ツルギの峰の吹き降ろしにさらされて今も矍鑠としているところを見ると、見かけより頑丈にできているようだ。
「おお、セディムさま。明日の天気は良くなると薬師も請合っておりますぞ。支度の方はいかがで?」
「上々だ」
 そう言い捨て、セディムは言葉とは似つかぬ顔つきで階段を駆けおりていった。

 トゥルクもまたラシードの帰郷を喜び、どこで何をしていたのか、とひとしきり文句をつけた。そのあとで、長に向かい、
「――ところで、セディム様はどうされたのです? ご機嫌がよろしくなかったが」
 再会のようすを見守っていた長は静かに答えた。
「刈り入れがまだ早い、と口利きにきた」
「して、何と?」
「承知している、と言った」
 トゥルクはそっとため息をついた。
「ご自身の力を試したいお年なのです。狩の腕はレンディア一、村の者からも慕われておられる。もっと、その……セディム様のご意見も汲まれてはいかがです?」
「試し、に村の命は預けられぬよ」
「しかし、それでは――」
「まだまだ、死にものぐるいということを知らない」
 長は手を組み、ゆっくりと言葉を探した。
「だが、あれは賢い子だ。いずれ長となればレンディアをまとめていけるだろう。その時が来るまでは、急いで長の衣を着せかけることもあるまい」
 その時、階段をまろびつつ駆け上がってくる足音が聞こえた。
「馬鹿者が帰ってきたとは本当ですか?」
 怒鳴りながら飛び込んできたのはヤペルだった。
 薄汚れた男の顔をみとめるなり、ヤペルは詰め寄った。まさか死人ではないのか。ハールの庭へ還る途中にふらりと立ち寄ったのではあるまいか。
 ラシードの肩を力いっぱい揺さぶり、だが、その顔もすぐに涙でくしゃくしゃになった。
「平原には暦というものがないのか。たわけ者が!」
「まあ、ヤペル」
 長は笑って二人を引きはがした。
「着替えくらいはさせてやれ。この格好で城の中を歩いていては、本当に死人と間違われてしまう。積もる話はそれからだ」






 

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