真冬の光  第一部 晩夏 3章-1 真冬の光 目次 3章-3
 
第一部 晩夏
三章 離別 - 2

 
 夜になると、天候はみるみる荒れてきた。
 風は山肌をむしり取るような激しさで吹きつけ、イバ牛たちは歩みを落とさなければならなかった。やがて、風に氷の粒が混ざりはじめた。方角も上下もなく吹きすさぶ風の中、二頭のイバ牛が村へたどり着いたのは夜中過ぎだった。
 夜も更けたというのに城のあちこちに明かりがともされ、どことなくざわついていた。そびえる石の塔を見上げ、セディムは面布の奥で目を細めた。
「――セディム様!」
「ルサ、イーラ (行け)
 城の階下、牛小屋の扉の前には明かりを背にした城臣の姿がある。セディムは牛を急がせた。
「ヤペル、何があったんだ?」
 小屋のそばまで来るとセディムはルサの背からすべり下り、近くにいた誰かに手綱を預けて駆け寄った。ヤペルはずいぶん長くここで待ちわびていたらしい、手燭の獣脂は小さくなっていた。
「長の、ケルシュ様のお具合が悪いのです」
「それはわかってる!」
 セディムは城臣をどなりつけた。
「だから、ウリックが呼んだのだろう。何故だ? 狩へでかける前には変わった様子などなかったのに」
 肩の小雪も払わず、矢筒も下ろさぬまま階段を駆け上がるセディムをヤペルは息を切らせて追いかけた。
「おとといの朝から、急に高い熱を出されたのです」
「熱?」
 その朝、長が食事に現れないので城臣が長の私室を訪れた。その時には、すでに熱が高く、声も出せない様子だったという。
「夏の病なのか?」
「ウリックは、狩の時に負った傷から悪い風が入ったのだろう、と言っております」
 セディムは足を止め、城臣をふり返った。
「あれは、もう治ったはずだ」
 ふいにセディムは寒気を覚えた。ヤペルも眉を寄せた。誰もが、薬師すらそう思っていたのだ。だが――。
「――治っていなかったのです」
 城臣の言葉にセディムは踵を返し、階段を踏みつけるようにして階上へ、長の私室へと急いだ。

「父上……!」
 セディムが叫んで扉を開けると、すぐそばに立っていた城臣が小声でたしなめた。
 中に入ったとたん、セディムは息をのんで立ちすくんだ。
 寝台の脇にぽつんと置かれた手燭。その他は部屋は暗いままだった。いつもは父しかいない静かな部屋だが、今は寝台を囲むようにユルクと数人の古参の城臣が、そして壁際に他の城臣たちが立っていた。
 どこかでかいだ覚えのある薬草が匂っていた。それに城臣や自分からは埃や汗、脂の匂いがする。だが、その中にぽっかりと穴があいたように何の汚濁もない、甘い空気が漂っていた。セディムは寝台へ歩み寄った。
「父上……?」
 ケルシュは瞑っていた目を重そうに開いた。しかし、眠っていたわけではなさそうだった。薄暗い中、手燭の灯でようやく息子の顔をみとめると、長は眉を寄せた。
「ここで何をしている」
「いったい、どうされたのですか」
「なぜ、狩場を離れた――首尾はどうであった?」
「そんなことより、熱は……」
「セディム。狩はどうだったのだ」
 声こそかすれていたが、語調は強かった。セディムは答えにつまった。山道を駆け戻る間、狩のことなど頭になかった。セディムは思わず歯をくいしばった。
「……良くありません」
「そうか」
 呟いて、ケルシュは再び目を閉じた。セディムは枕元で薬湯を支度していた薬師をふり返った。
「ウリック。何があったんだ」
 薬師はセディムと傍らのラシードの顔を見比べて、固い表情で答えた。
「前に負った肩の傷から風が入っていたのです。傷はふさがっていたが、そのために熱の原因を見誤ったのです」
「どうして、今まで気づかなかったんだ」
 思わず責めるような口調になるのを、横からユルクがとりなした。
「しばらく前から、本調子では居られなかったようです」
 このところ、村中が忙しかった。村人ばかりでなく、城臣も覚書を抱えて朝から晩まで働きづめだった。終いには長までもが食糧庫で城臣を手伝っていた。もう少しでひと段落つくから、そう考えて長は黙っていたのかもしれない。
 ウリックは練り薬を手に、病人にかけられた毛皮をめくった。セディムは息をのんだ。
 父の肩から胸、首にかけて赤黒く腫れあがっていた。目立つ傷はなく、怪我を負っていたことを知らなければ、何かの災いの結果としか思えなかった。薬師はそこに練り薬を塗ったが、効きそうにもなかった。熱が身体の内を苛んでいるのだろう、ケルシュの目は潤み、ひと息ごとに力を奪われていくようだった。
 ウリックはさました薬湯を飲ませようとした。だが、飲み込む力がないのか、喉まで腫れているのか、器の中身はいっこうに減らない。薬師は器を下げた。セディムは訝しげに薬師を見上げた。
「ウリック……?」
 ふいにセディムは目を瞠った。
 何故、城臣たちがここに集まっているのか、この匂いが何か気づいたのだ。
 病人の枕元の手燭には見慣れない薬草が燻り、甘い香りを放っていた。毎年、村のどこかでひっそりと焚かれていた薬草だ。セディムはかすれた声で薬師に尋ねた。
「――ウリック。父上は、招かれているのか?」
 ユルク、そして薬師たちは目を合わせた。ウリックは薬湯を置いた。
「これは、痛みをやわらげる薬湯です。天の庭へのぼる時に苦しみを置いていけるように」
「……セディム」
 そのとき、かすかな声に一同ははっと息をのんだ。
 ケルシュはふたたび目を開けていた。苦しい息の下でもかわらず澄んだ瞳が子を探して揺れた。
「城臣たちとよく相談するのだ。まだ冬は始まったばかり。この冬を乗りきれれば、長として大きな自信になるだろう」
 激しい風が窓を揺さぶった。セディムはぞくりと身を震わせた。父が身罷れば、自分が長としてレンディアを治めねばならないことを思いだしたのだ。セディムは父の枕辺へ縋りついた。
「無理です」
 まわりに立っていた城臣たちはぎょっとしてセディムを見た。
「そんな力はない。いつにもまして厳しい冬になるのに。――何故、今なんだ?」
 セディムの声に怒りがにじんだ。
「長がすることを見ておけと、そう仰ったのは父上だ。まだ、なにも見せてもらっていない……!」
 その肩をヤペルが抑えたが、セディムは振り払った。
 ふがいないと言われてもかまわない。村人の命と希望。それを守るだけの力が今の自分にはないとわかっていた。だが。
「――持てるすべてを捧げなさい」
 そう言うと、長は手をのべた。痛みに苦しんでいるはずのケルシュのまなざしは、突き放したように静かだった。
 セディムは唇を噛み、身をかがめた。長は息子の頭を引き寄せ、額を合わせた。
「知恵も力も尽くせ。そうすれば、ハールはその息子を決して見捨てはしない」
 そして、天を言祝ぐと長は深く息をはいて苦痛に身を任せた。そして、幾分穏やかになった息の下でつぶやいた。
「セディム。書物を戻しておいてくれ」
 見れば、卓の上には読みかけの年代記が広げてあった。
「続きは、またあとで読むことにしよう」
 セディムがのぞき込むと、遠のくように静かに長は目を瞑った。
 ウリックが進み出て容態をたしかめた。まわりで見守っていたユルクら城臣たちは誰言うともなく壁際まで下がった。ハールの庭へ向かう者の心を乱してはならないと知っているからだ。だが、セディムは離れようとはせず、寝台の横に膝まづいた。
「……父上、他に何かありますか?」
 しかし、そのささやきに答えはなかった。ケルシュの息は長くゆるやかで、その目がもう開かれないだろうことは明らかだった。セディムは歯をくいしばった。
 もう、呼ぼうが泣こうが父は待ってくれないだろう。
 すでに播かれた種を取り戻すことはできないように、あとは旅路が無事であることを祈ることしかできない。せめて忘れることのないように、とセディムは父の顔を見つめた。往こうとする人と呼吸を合わせれば、自然におなじ表情になった。そうすると去る者と残る者との距離がいっそう大きく思われて無性に悲しかった。
 そうして、どれだけ経った頃か――。
 薬師に何度も名を呼ばれて、セディムは我にかえった。
 いつのまにか、寝台に身を伏せていた。石の床は冷たく、とうとう外は雪になったらしい。窓の外は奇妙なほど明るかった。
 父の息はいつしか途切れていた。あらためて見たその面差しは穏やかで、眠っているとしかみえなかった。座り込むセディムの肩に城臣の手がかけられた。
「お立ち下さい。そして、これを」
 ユルクが差し出したのは、長の上着だった。祭りや春の使者を迎えての宴の時にケルシュがはおっていたものを見て、セディムは物憂げに首をふった。だが、ユルクは手を引こうとはしなかった。その目もセディムと同じように暗かった。
「長が往かれた」
「ハールの待つ庭へと旅立たれた」
 城臣たちの間から静かな祈りの言葉がもれた。やがて、彼らの手が若者にのべられた。
「――我らが長」
「レンディアの父となられた」
「天の護りのあるように」
 彼らは、呆然と座り込む若者を助けて立たせ、その前に頭を垂れた。セディムは促されるまま衣に袖をとおした。
 襟元からゆるやかな袖、長い裾まで刺繍をほどこした長の衣はずっしりと重い。弔意を示す白い肩布をかけられるままになって、セディムは黙っていた。何を考えてもひとつの言葉しか思いつかなかった。
 ――何故、今なのだ、と。






 

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