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第二部 早雪の底 |
二章 突風 - 3 |
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二日目の朝。ようやく薬師部屋から出てきたウリックは、ギリスの弟、そして長と話がしたいと告げた。 チャルク――ギリスの弟で、たった一人の家族だ――は憔悴した顔つきでやってきた。兄の身を案じて眠れなかったせいもあるが、長の間に呼び出されたことでも不安を覚えていた。 なぜ、長の間なのか。薬師部屋へ呼ばれると思っていたのに。それとも、もう兄はハールの手もとにあるということなのか。そう考えて、彼は落ち着かなかった。セディムや城臣たちもまた理由がわからず、黙って薬師を待っていた。 その時、扉が細く開き、ウリックとラシードが現れた。彼らもまた疲れた顔だった。ウリックはまず長の前に立った。 「ひとまず体は温まって、命はとりとめています」 そばに控えていたチャルクの口から安堵の息がもれた。しかし、セディムの表情はかたいままだった。 「では、なぜギリスと会えないんだ?」 「そのことですが――。まだ、終わっていないのです」 ウリックの声は重苦しかった。 その前の晩、薬師部屋では薬湯で眠らせたギリスを前に、薬師たちが休まず働き続けていた。しかし、彼らの献身と祈りに反して、ギリスの凍った手足に血は戻ってこなかった。 「もう、どうしようもない」 とうとうウリックが絞り出すようにつぶやき、手にした布きれを握りしめた。 「何故だ? 村のために働いた狩人を、何故ハールは召されるんだ」 ウリックは寝台の脇に立って、荒い息をしているギリスを見下ろした。 右腕の先は不吉な黒い色に変じていた。毛皮の下の足も同じだろう。こうなっては血は戻らない。あとは落ちるだけだ。落ちるだけならまだよいが、死んで変色した手足は悪い風を呼び込み、じきにギリスの命を持っていくだろう。 その時、それまで黙って働き続けていたラシードが口を開いた。 「――ウリック。ひとつ方法がある」 「何?」 ウリックは兄弟子を見つめた「助けられるのか?」 「断言はできない。五分五分、としか言えない」 五分とはいえ希望のはずだ。そう問い詰めたウリックは、つづく言葉に目を瞠った――。 「このままでは、治す手立てはありません」 長、城臣、そしてチャルクの顔を見回して、ウリックは抑揚のない声で言った。 「薬草を飲ませて眠らせて、腐ったところが落ちる痛みを和らげてやることしかできない」 チャルクの顔はさっと白くなった。 「チャルク、ここに座れ」 セディムは椅子から立ち上がり、村人を促した。 「いや……。大丈夫です」 そう言い張るチャルクの腕を支えながら、ヤペルは苦々しく尋ねた。 「何かできることはないのか。村のための狩だったのだぞ」 「あるには、ある」 低く答えたのはラシードだった。どうやらここに呼び集められたのは、そのためらしい。迷ったあげくに、とうとうウリックが口を開いた。 「……切るのです」 「切る?」 「血が戻らないところを切り落とす。それで、命は助かるかもしれない」 ぽかんとしていたチャルクがつぶやいた。 「切るって。手を……足も?」 一同は目を瞠った。そんなことを誰も考えたこともなかったのだ。 「杖をつくれば、歩けなくなるわけではない。不便ではあろうが……」 ウリックは丁寧に説明したが、チャルクの表情は複雑だった。杖をつきながらでは畑仕事などできまい。弓をひくこともままならない。そんな男の生活を想像できなかったのだ。 「それに。切るって、どうやって?」 すると、ラシードが腰の剣を示した。 「これで切って、傷口を灼く。平原の戦場で同じようなことをしたことがある。乱暴な方法だが、手足がもげ落ちるのを待つよりはいいだろう」 チャルクは薬師の顔をまじまじと見つめた。 「……そうすれば、命が助かる、と?」 「はっきり言えば、わからん。助かるかもしれない。だが、悪い血がすでに体に回っていれば、もう間に合わないかもしれない」 皆が黙り込んだ。ラシードは驚きが静まるのを待っていた。そして、ウリックは今も眠らせたままのギリスを思いながら、厳しい視線を周囲に投げた。 「これは、薬湯や塗り薬だけの話ではない。薬師だけでは決められないのです」 身内と長に訊かなければ決められない――それが、薬師たちが出した結論だった。チャルクは黙り込んで考えた末、ようやく声をこぼした。 「もし、助かるのなら……」 ごくりと唾をのみ、長を見つめた。 「ありがたい。生きていてくれたら、ありがたいと思う。……でも、それでいいのですか?」 「チャルク?」 セディムは眉を寄せた。握りしめたチャルクの手は震えていた。 「もしも、ハールが兄を召されるおつもりなら、それに抗っていいのか。そんなことをすれば、天の怒りを招くのではないですか?」 そう言ったとたん、チャルクの目に涙があふれた。 「生き延びるかわりに父神の子ではなくなって……そんな命を兄が望むとは思えません」 その目は涙を落としながらも長を見据え、瞬きもしなかった。 セディムは言葉を失った。そんなことを尋ねられようとは思わなかったのだ。答えられずにいると、横からレベクがひっそり尋ねた。 「長。どう思われますか?」 セディムはたじろぎ、城臣の顔を見つめ返した。レベクは穏やかに頷いてみせた。 「あなたが思われることでいいのですよ。ハールはギリスの命をどうされるおつもりだったのか?」 チャルクのまっすぐな瞳、居並ぶ城臣らの顔を見まわして、セディムはふと目を閉じた。ギリスを助け出した時の話を思い返すと、その情景が浮かんだ。 雪の下から引きずり出されたギリスの白い顔。血で黒ずんだ手に握られた山鳥。ギリスは助けを待つ間、力をつけようと獲物を屠っていたという――。 「――ギリスは、獲物を捕らえている」 ゆっくり考えながら、セディムは言葉を継いだ。 「ハールは、ギリスを生きて返すつもりだったんじゃないか? 手元に招くつもりの者に獲物を与えたりはしないだろう」 チャルクは溜息とも泣き声ともつかない呻きをもらした。 「では、そうして下さい。兄を、助けてやって下さい」 これを聞くや、ラシードは踵を返した。 「ウリック、行こう」 セディムははっと顔を上げた。 薬師二人はもう部屋から出て行くところだった。後を追うチャルクも扉の前で振り向き、涙に汚れた顔で晴れやかに笑んだ。 「長、ありがとうございます。ハールのお護りあれば、何があっても兄は満足するでしょう」 「待て……」 チャルクの言葉にセディムは目を瞠った。あわてて立ち上がり呼びとめたものの、彼らは飛び出していってしまった。 「どういうことだ、レベク!」 セディムは城臣に向き直り、怒鳴った。握りしめた拳が震えていた。 「どうして、これがハールの加護だというんだ?」 「長の言葉は、ハールのご意思を映すものです」 レベクの答えに迷いはなかった。 「ケルシュ様もよく皆の問いに答えておられたでしょう」 たしかに、村人はケルシュに尋ねたものだ。明日の天候はどうなろうか、秋の狩の首尾はどうだろうかと。だが――。 「あれは、父上だからだ」 「セディム様。あなたは長になられたのですぞ」 レベクは珍しく厳しく言った。「レンディアの父となられたのです」 だが、セディムは激しく首を振った。 「おかしいじゃないか。ハールは何も示されなかった。少なくとも、ここにいる者は知っているはずだ」 「長」 それまで黙って後ろにひかえていたユルクが口をひらいた。皆、それぞれ固唾をのんで長老の言葉を待った。 「三人の長にお仕えした身から申し上げれば、わしにはそうは思われません」 「……」 「些細な落ち度や思い違いがあったとしても、長い目で見て、レンディアの長が間違いをおかされたことはありません。何故だと思われますか」 「何故って……」 「ハールが長を通してお言葉を下されるからです。長のご判断はハールのご意思の顕われ。水がおもてに天を映すのと同じです」 セディムはユルクの目を見つめた。 ユルクはノアムの祖父であったから、幼い頃から自分の祖父のように慕い、信頼してきた。しかし――。 「――本当に、そう思っているのか?」 「はい」 ユルクは即座に答えた。しかし、それは若い長の腹立ちに油を注いだだけだった。 「ハールは天におられる」 セディムはきっぱりと言った。 「――ここじゃない。長の言葉をそのままハールの意思だと思うなんて間違ってる」 そう言い放つと、足音も高く部屋から出て行った。残された城臣たちは顔を見合わせた。 |
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