真冬の光  第二部 早雪の底 3章-2 真冬の光 目次 3章-4
 
第二部 早雪の底
三章 雪に閉ざされる - 3

 
 (レンディアの長であるとは――)
 セディムは麦藁を一本手に取り、弄んだ。それは、これまで自分が考えてきたものとは違う。
 自分が父長に抱いていたのは敬意であって、天を仰いでの祈りとは別物だった。レンディアを守っているのはハールであり――決して、長当人がハールと同じ力を持つわけではない、と思ってきた。だが、村人らにとって、二つはそうかけ離れたものではなかったようだ。
 前の晩、セディムはやがて来るハールの祝祭日の贈り物を決めようと、父の覚書を繰っていた。長からの贈り物はハールのそれと見做されて特に喜ばれるから、長の大事な務めのひとつだ。だが、これまではその意味を深く考えたことはなかった。
 祝祭日の贈り物を開いて喜ぶ村人の気持を台無しにしたくないとセディムは悩んだ。しかし、悩んだ末に決めたことにも自信が持てない。結局、村人の思いをどう受け止めるべきか、腹が決まっていないのだ。そして、今更こんなことを考えている自分に苛立つばかりだった。
 セディムは弄んでいた麦藁を壁に向かって投げつけた。だが、思うほどの勢いもなく藁はひらひらと落ちて、それがまた腹立たしい。外へ出たいというルサの気持ちもわかる。雪を払いながら、風を出し抜いて駆け抜けたら気持ちいいかもしれない――だが、そんなことを考えても大した気晴らしにはならなかった。
 その時、イバ牛が耳をぴくりと動かした。
「ルサ?」
 みれば、周りのイバ牛も餌を食むのをやめて顔を上げている。セディムは耳を澄ませた。しかし、聞こえるのは壁を打つ鋭い音だけだ。風が石の小屋に氷塊を叩きつけているのだ。
「大丈夫。ただの風だ」
 そう宥めながら首をこすってやったが、イバ牛はいつまでもそわそわと落ち着かなかった。風の音を聞くうちに、ふいに薬師の言葉が思い出された。長年、故郷を離れていた彼はここを美しいと言った。
(ここは確かにハールの護る地だ。でも――)
 平原こそ豊かな水と麦があふれる夢のような場所ではないのか? その考えを嘲うかのように風がうなり声を上げた。毎年繰り返される、これがレンディアの現実だ。
 セディムはふと顔をあげた。そして藁くずを落として立ち上がるとイバ牛の鼻面をこすり、
「ルサ。また、来るからな」
 そう言い置いて小屋を出ようとした。だが、手燭を忘れたことに気づいてあわてて戻った。そして、あらためて足早に階段を上がっていった。


 長が自分を探していると聞かされたラシードは、使いの子どもに教えられた塔を上っていった。
 冬の間、多くの窓は外扉を閉ざしているため廊下は冷え切っている。だが、その先の長の私室の扉からは細くあたたかな明かりが漏れていた。
「――長、お呼びになりましたか?」
 応える声に扉を押し開けると、セディムが炉の前に座り込んで火を掻き立てていた。どうやら彼も戻ったばかりらしい。部屋は廊下とかわらぬ寒さだ。ラシードはめずらしそうに辺りを見回し、かすかに頬をゆるめた。
 いつかケルシュと酒を酌み交わしたところではない。どうやらセディムが子供の頃から使っている部屋のようだ。奥にはアレイオスとケリン・ドゥールの言い伝えを描いた壁掛けがあって、いかにも継嗣の部屋だ。
 しかし、長年使われているわりに驚くほど簡素な佇まいだった。壁にかけられた外衣、弓と矢筒、そして鞍。寝台の上には毛皮の上掛けが畳まれている。そして、壁際の小さな卓の上には使いかけの獣脂の手燭が置かれていた。どうやら、若い主はここに長居することはないようだ。
 セディムは炎に勢いがついたのを見届けて、ラシードに向き直った。
「暖まるまで我慢してくれ」
 なに、慣れておりますよ、と言いながらラシードは上着の襟をかきよせ、勧められた椅子に腰を下ろした。
「して、御用は何でしょうか?」
「父のことを聞かせて欲しいのだ」
 長のこの言葉にラシードは瞬きし、そして笑った。
「私などより長の方がよくご存知でしょう」
 しかし、セディムは首を横に振った。卓の上に置かれているのは、亡くなった長が残した贈り物の覚書。そこには、几帳面な文字がびっしりと連ねられていた。
 ――アデルへ。矢羽根。来年も誇り高い狩人としてレンディアのために働くように。
 ――ユナへ。来る婚礼のための飾り石。よき妻、そして母となるように。
 言葉ひとつひとつに村人への気遣いが窺われ、穏やかな声まで聞こえるようだった。その覚書を指で辿り読みながら、セディムは何度も唇を噛んだのだ。
 いったい自分は何をしてきたのか。いつも思いをぶつけることに手いっぱいで、父の胸の内などわかっていなかった。だが、同時に腹立たしい思いも湧いた。何故父はこうした長の責というものについてもっと語ってくれなかったのだろう、と。
 そのうち、変色した古い紙の端につけ足すように書かれた名にセディムは目をとめた。日付は二十余年も前。ラシードへ。護符を贈る――そう書いてあった。
「――あなたなら、知っていると思ったのだ」
 セディムはまっすぐに薬師を見た。
「長の立場にあることを、父自身はどう考えていたのか。私にはそんな話はしなかった。ユルクたちにも。もし口にしたとすれば、友人であり従弟であるあなたの前だけだっただろう」
 そして、ふと目を伏せた。
「弔いをすませた時には、悲しいと思う余裕もなかった。だが、最近はよく考える。父はいつも何を話していただろうか、と」
「……」
「でも思い出すのは、黙ってこちらを見ている顔ばかりなんだ」
 そう言ってセディムは寝台に腰を下ろし、膝の間で手を組んで身を乗り出した。その仕草はそれこそケルシュとそっくりで、ラシードは思わず目眩をおぼえた。
「長。自分はレンディアを離れて長い。別れた時に若い長だったケルシュがその後どんな経験を積んで、その立場に馴染んでいったかはわからない。だが――」
 ラシードは言葉を探してふと沈黙し、そして答えた。
「――ケルシュはあなたに、レンディアを負う前に何かを見つけておいて欲しいと願っていたように思う」
「何か?」
「何が国に安定と豊かさをもたらすのか。何がレンディアの幸福なのか。そういったことを」
 セディムはふと目を細めた。何が幸福か否かなど、とりたてて考えたことはなかった。
 だが、その言葉に思い浮かぶものはあった。
 例えば、炉を囲む親子の姿、あるいは宴の席の男たち。畑仕事の合間に腰をのばして見上げた空。渡る鳥の音。岩陰の子どもたちの隠れ家。洗って草の上に広げた色とりどりの上衣の花や、風を切る矢の音は物心ついた時からそこにあった。夏にはイバ牛のなめらかな毛並みと草地のような匂い。そして、刈入れの日。輪になって足を踏み鳴らす籾打ちの歌。それから――。
 黙って思い更けるセディムをラシードは見守っていた。
 城臣たちの中には、セディムにもっと責任を持たせて学ばせてもいいのではと長に進言する者もいたらしい。しかし、長はそうはしなかった。
(時間をやりたかったのだ)
 ラシードにはそう思えた。
 長には重い責がある。それを負わせる前に、レンディアの何を守るべきかを掴んで欲しかったのだろう。種をまく前に土を耕すように――言葉にならない何かをケルシュは息子の中に育てておきたかったのだ。
 そして、若者の真剣な表情を見れば、旧友の考えが正しかったことがわかった。
「――行く道を示すハールの声に耳を澄ませよ、と言いたかったのかもしれない」
 長い沈黙の末にラシードはぽつりと呟いた。
「ケルシュは平原のゆたかな畑や町を見たがっていた。若者の憧れもあっただろうが、何か村の役に立つものを得たいと願っていたのだろう」
「平原の何が、どうしてレンディアのためになる?」
「レンディアがそうなる術を知りたいと考えていたからだ。山は貧しい。一年の半分は深い雪の中。夏は涼しく短い。麦も木の実も軽いから、人も獣も痩せている」
 セディムは釈然としない顔つきになった。
「冬とは寒く、雪は降るものだろう?」
 そう言いながら、それがあまりに当たり前すぎて笑ってしまった。
「雪のないレンディアなど、レンディアではない。暖かな平原の知恵がどうしてここの役に立つ?」
 しかし、ラシードは首を横に振った。
「何であれ、示されるものすべてから学びたかったのだ」
「……」
「忘れないで頂きたいのは、ケルシュも決して何もかもわかっていたわけではない、ということだ。考え悩まない者などいないのです」
 炉の炎が伸びあがり、それを見つめる二人の顔を照らした。
 それは不思議な光景だった。
 セディムとラシードは互いのことをほとんど知らない。それが、ここにいないもう一人を思い、その重みを感じながら言葉を紡いでいた。ひとつずつ、少しずつ――それは、石鉄の刃物を作るのと似ていた、右にひとつ、左にひとつと鑿を打って釣り合いを取りながら、何かのかたちを取り出そうとしているようだった。
「あなたは何を見つけたんだ?」
セディムはふと顔を上げた。
「平原で求めていたものを得て、行く道を示されたからここへ帰ってきたのだろう?」
 若者らしいまっすぐな問いにラシードはたじろいだ。
 同じことを城臣連中が聞かれたなら、冗談で返したかもしれない。しかし、記憶の中の旧友そっくりの姿で尋ねられて拒めるわけがない。
 彼はしばらく黙っていたが、やがてぽつりと答えた。
「見つけたと思ったが、失くしてしまった」






 

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