真冬の光  第三部 護り願うもの 3章-3
真冬の光 目次 4章-1
 
第三部 護り願うもの
三章 山のこころ - 4

 
 この冬、三度目の罠が仕掛けられることになった。
 だが、白月も終わろうとしている今回で冬の狩は終わりだ。獣たちも、眠って春を待つ他に体力を費やすことはないだろう。
「これで、よし」
 雪から頭をもたげている灌木の陰に、ぽっかりと青い穴を掘りながらノアムが呟いた。
 その横で、手先の器用なスレイが罠を支度していた。ささやかな餌――木の実や肉屑――を取ると仕掛けが動き、獲物をからめとる。さらに、傍らの穴に落とし込むことができれば、他の獣に横取りされずにすむ。二重の罠だ。
 晴天ではあったが、空気は凍てついていた。急に風が吹いて雲を運んでくることもあるから、狩人らは時おり空をうかがいながら働いていた。しかし――。
「やっぱり、牛をつぶすんだろうか」
 スレイは重い声で呟いた。蔓を結ぶ手はとまりがちだった。ノアムは掘った穴の中にうまく枝を下ろそうと苦心していたので、すぐには答えられなかった。
「……そうかもしれないな」
 と、ようやくの答えも簡潔朴訥なものだったのだが。
 しかし、スレイはノアムの倍はしゃべる性質だった。冬になってからずっと鬱積していた思いがあふれた。
「俺はいやだ!」
 ノアムは起き上がると、両手をはたいて雪を落としながら幼馴染の顔を見つめた。
「そうは言っても、他にどうする? どうしようもないだろう」
「でも、何年もかけて育ててきたイバ牛じゃないか」
 スレイは言い返した。
「狩人の手足になるように、畑仕事をするように慣れさせてきた。それをふいにするのか?」
「スレイ。そうだとしても全部じゃない。どの牛にするかは城臣たちがよくよく考えて選んでくれるだろう」
 くやしそうに唇をかむスレイをノアムは辛抱強く諭した。
 城の中にこのような噂が流れはじめてから、ノアム自身も釈然としない思いだった。もちろん、イバ牛を食べられるということは知っている。だが、毎日ともに暮らすイバ牛をあえて食するなど考えたくないものだ。
 畑でも狩場でも、人とイバ牛は一緒に働く。ヒラ麦は人が実をとり、麦殻を牛にやる。イバ牛が狩場を駆け、獲物を捕らえたら、人より先に水を飲ませて労うのだ。
 日々の生活そのものを成す牛を、どうして食べられるだろう。しかも、この数年は生まれる仔牛が少なかった。一頭だって失いたくはないのだ。
 だが、不憫とばかり言っていられない。ノアムは、手鋤を両手で幾度も持ち替えながら、言葉を探した。
「どっちにしろ、冬の餌にする麦藁も足りない。全部の牛を春まで生かしておくのは無理だ」
「無理って……」
 スレイの声が怒りで震えた。
「でも! でも、もしかしたら去年みたいに雫月には雪がとけるかも――」
「スレイ」
 ノアムは鋭く遮った。珍しくきつい声だった。
「『もしも』に賭けるわけにはいかないんだ。それくらいは長でなくてもわかるだろう」
「……」
「さあ、そっちの罠をよこせよ」
 ノアムはつとめて明るく言った。
「俺だって牛をつぶすのは嫌だ。だから、そうしなくて済むように罠をしかけよう。な?」
 二人はさらに雪の中を歩きまわった。野鳥が身を潜めそうな岩陰、それを目当てに穴から出てくるテンやらイタチの通りそうな斜面――。
 ノアムは浮かない気分をひきたてようと、手鋤をさくりと雪の表に突き刺した。「……スレイ。次はここにしよう。どうだ?」
 スレイは黙って頷いた。
 彼は正直を言えば、罠もあまり好きではなかった。ハールがこれに獲物を送って下さるとは思えなかったのだ。だが、それを口に出せる状況でないこともわかっていた。
 冬枯れしているクロヤマツジの茂み、その陰にノアムが落とし穴を掘り、底にはスレイが罠をおいた。穴に落ちた獣が簡単には外へ出られないよう、罠には鋭い棘がつけられている。
 仕事が済むと、彼らはちょっと目を閉じてハールとアレイオスの名前を短く呟いた。それから、自分たちの足跡を消しながらその場を離れた。
 まばゆい雪の表に強烈な陽が降りそそぎ、見る者の目を射る。しかし、ノアムの胸のうちは重く沈んでいた。
 いつだったか、セディムと一緒に地リスの巣穴を見つけたことが折にふれて思い出された。
 走り去る小さな体躯と黒く濡れた瞳――。冬になってから、思い立って近くへ行ってみたこともあった。だが、穴はとうに空だった。何か異変を感じて、巣穴を変えたのだろう。用心深い地リスにはよくあることだった。そして、自分たち人間も長い冬の兆しを示されて、こうして工夫を続けているわけだ。
 しかし、その工夫にも限りがある。罠を仕掛けられなくなれば、あとは城にあるもので何とか生き延びるしかない。最初にしなければならないのは――。
 ノアムは首を振った。必要ならば、牛をつぶすのは仕方ない、とは思っていた。しかし、何頭かつぶしたとして――はたして、それで春までもつのだろうか。
(でも、もっとたくさんの牛をつぶせば……来年はやっていけない。畑も、狩も)
 そう考えて、ノアムは身震いした。このところ、思いつくのは不安を誘うようなことばかりだ。何かを考えるだけではなく、こうして体を動かしていられることにノアムは感謝した。
 ハールはその子である人間に、耐えられないような試練を与えることはないという。しかし、今年ばかりはその荷は少々重過ぎるような気がした。

 人間たちが去った後。
 連なる雪の小山の陰に動く姿があった。銀色の冬毛のテンだった。
 雪の上にようやく頭を出している潅木の枝陰から頭を出し、辺りをうかがってから雪の原に走り出た。ぽつぽつと青い足跡を残して走っては止まり、周囲を見回す。時折、何か見つけたように別の岩陰を目指す。
 その時、空に羽音が響いた。クロ鷲だ。
 猛禽は大きな影を雪に落としながら、テンめがけて急滑降した。哀れな獲物は斜めに跳ね、走って身をかわそうとした。が、クロ鷲の追跡からは逃れられなかった。じきに疲れがみえたところで鷲の太い足がテンに一撃を与え、捕えた。雪の上に血がほとばしった。
 天から贈られた獲物をつかみ、クロ鷲はふたたび舞い上がった。空をひと巡りすると、すぐに風をとらえて悠然と丘の向こうへ消えていった。
 後に残されたのは、鮮やかな血の跡だけだった。だが、それもふたたび降る雪で覆い隠されてしまうだろう。
 生きている証も死の痕跡も、冬はおなじようにのみ込んでしまう。






 

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