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第四部 真冬の光
一章 雪幻 - 1

 
 年明けの数日、山の気まぐれというべきか、突然に寒さが緩んだ。
 このまま、春へ向かえばいいが――セディムがそう言うと、ユルクは首を振った。これは気温が下がる前触れで、むしろ寒さの底はこれからだろうという。
 長と城臣たちの年初めの仕事はつぶす牛を選ぶことだった。
 名前をつけられていない牛は数えるほどで、その中で肉を得るのに向く年齢、体格のものはさらに少なかった。
「五頭だ」
 長の間に集まった城臣たちとの話し合いの末、最後には長が決めた。
「灰色足、そのとなりの首白、斑尾。それと、尾白の二頭にしよう」
「どちらの斑尾で?」
「黒毛の方だ」
 一同の合意の頷きとともに、一瞬重苦しさが流れた。それに気づかないふりを装ってセディムは続けた。
「支度が整えば、明日の明け方に始めることにしよう」
 決めたことは、ひと息に終わらせてしまった方がいいとセディムは考えていた。
 水は飲ませるが、もう干し草はやらない――そう言おうとして、ふいに胸が詰まり、声にならなかった。選んだどの五頭もよく知っている。斑尾はルサの兄弟で、自分の牛を選ぶ時にも最後まで迷った。
「では、夕方までに選んだ牛の房を移しておきましょう。石刃と籠を集めて、それから……」
 するべきことをヤペルが数えあげ、指示していった。セディムは城臣たちの支えに感謝した。自分一人では到底できなかったとよくわかっていた。
 翌早朝、五頭の牛たちは小屋から引き出された。凍てつく空気と陽光を照り返す雪の中、祈りののちに牛たちは石鉄の刃物でさばかれた。
 男たちは必要なこと以外は口もきかずに働き続けた。普段の獲物よりも大きく、何より牛をさばいた経験がないせいで時間がかかった。おおかたの肉は城のすぐそばに掘られた深い雪穴に埋められた。小さな肉片は厨房へ運ばれた。女たちはそれをさらに細かく切り、塩や薬草にくるんで大事にしまいこんだ。
 手間取りはしたが、夕方までには何もかもが切り分けて保存され、その日の夕食には久々に実のある汁物が出された。

 こつん、と扉を叩く軽い音に、寝床に入っていたミーチェは目を開けた。
 そして、部屋にすべり込んできた長の姿を見ると思わず身を起こして咳き込んだ。
「寝てたのか。悪かった」
 入ってきたセディムは手にしていた椀をおいて、あわてて老人の肩を支えた。ミーチェはひとしきりかすれたような咳をした。
「いや。横になったばかりで、まだ寝るには早い。どうなさったのか」
「寝込んでると聞いたから、様子を見に来たんだ」
 老人の肩に毛皮をかけてから、セディムは分厚い敷物の上に腰を下ろした。
「ほら、食事だ」
「ああ、今朝でしたな、牛をつぶしたのは」
 ミーチェはまだ温かい汁椀を受け取って、ゆっくりと匙を運んだ。
 セディムは炉の火をかきたてて、少しでも部屋をあたたかくしようとした。炉の横におかれた籠の牛糞は残り少なかった。
 数日前から、ミーチェや他にも何人もの村人が咳をして床についていた。窓の隙間から悪い風が入り込んだのかもしれない、壊れたままの場所がないか確かめよう、とセディムはぼんやり考えた。
 ミーチェは咳で疲れているのか、匙をすするのも億劫なようで何度も手を止めた。寝てばかりで腹が空かないので、と言う。結局、子供らに食べさせることになった。
「これで皆が少しは楽になりましょう。……感謝しとりますよ」
 匙を置いたミーチェはぽつりとこぼすように言った。セディムは目を瞠った。
「……感謝?」
 問い返す声は思わず鋭くなった。
「いったい何に感謝するというんだ」
 これを喜んで食べている者などいないことは明らかだった。イバ牛をさばいていた男たちの表情は固かった。生きるためとわかっているから厭う者はいないが、いつもの狩の後のように互いの腕前を自慢する声もなければ、当然ながら笑い声もない。弔いのようだとさえセディムは思ったのだ。
 しかし、ミーチェの答えは意外なものだった。
「早めに決めて下さったことに、です」
 そう言って、老人は年若い長を励ますように目を細めた。
「わしは城臣じゃあない。ユルクたちが抱えてる覚書など、読んでもさっぱりわかりません。だが、長年、冬を見ていればわかる。あとひと月もたてば、レンディアは本当に食べるものが無くなる」
 セディムが考えまいとしていることをミーチェは淡々と口にした。
「何日もろくに食えなくなって、その頃にはこれを美味いと思うでしょうな。その方がよほどつらい」
「……」
「今なら、自分で選んで食べたと思える。そう思えるうちに決めて下さってよかった」
 穏やかなミーチェの表情にセディムは唇を引き結んだ。
 いつかの晩にユルクが言ったように、村は自分の決めたことに従うのだ。代償もろくに求めることなく。
「――これで、春までやっていけるはずだ」
 自分に言い聞かせるように、セディムはつぶやいた。
「苗床も順調にできている。牛がいればなんとかなる。明け月が終われば、じきに風がかわる」
 だが、いまも外では風がうなり声をあげている。石を削る氷片が飛ぶ中、春と言っても何の実感も伴わない。それがどんなものだったかさえ思い出せない。
 だが、そんなセディムの思いを見透かしたように、ミーチェはひっそりと笑った。
「それでも、春が来ます」


 広間は出入りする者でごったがえしていた。その隅に並んで座って、ノアムは甥のマウロとともに椀をすすっていた。熱いものは一日働きづめだった身には嬉しかった。
 マウロは深い椀にしがみつくようにしてせっせと食べていた。ここしばらくは絶えず腹を空かせて痩せてはいたが、顔つきはしっかりとしていたから、ノアムはほっとした。食べ慣れないイバ牛の汁物は、正直いってそれほど旨くはない。しかし、幼い子供が無心にものを食べる姿をみると、これでよかったのだと思った。
「マウロ。しっかり食べろよ。残しちゃだめだぞ」
「んっ」
 短く答えて、子供は椀に顔を突っ込んだ。しかし、これも食べるか、とノアムが自分の分の残りを見せると首を振った。
「のこした、め」
「そ、そうか。残しちゃだめだな。そうだよな」
「甥っ子にたしなめられてどうする、ノアム」
 笑いながら声をかけてきたのはギリスだった。こつ、こつと杖を鳴らしながら難儀そうに腰を下ろす。ノアムも手を貸してやった。
「今朝はご苦労だったな」
「具合はどうだ?」
「ときどき痛むが、たいしたことはない。不便にも慣れたよ」
 汁物をもらってきてやろうとノアムが立ち上がりかけると、
「いや、もう向こうで食べてきた」
 そう言って、ギリスは広間に集まった面々を見回した。
 炉の回りに車座に座り、男たちはいつになく静かに食事を続けていた。汁物をよそう女たちも口数少なく、ただ黙々と手を動かしている。その向こうのスレイの姿に気づいてノアムはふと眉を寄せた。
 スレイは一人で練った麦粉のかけらばかりを口に運んでいた。汁物の椀を手にしては考え、口をつけては元に戻したりしている。理由はすぐに思いあたった。
 ノアムにとっても今朝の仕事は気が重かった。だが、するべきことをする、五頭だけでよかった、と思うしかないのだ。ギリスもそれに気づいたか、
「しかたないさ」
 そう言って、ノアムの肩を叩いた。
「みんなわかってるんだ。嬉しくなくとも食わないわけにもいかない」
「ああ」
「食べたことが無駄にならないように、春まで踏ん張ればいい」
 ギリスのひとことでノアムはどこかほっとした。
 ふとマウロを見ると、椀に顔を突っ込んだまま眠りそうになっていた。あわてて肩をつかんで起こしてやった。
「こら。寝るか、食べるか、どっちかにしろ」
 しかし、返事ははっきりしない。ギリスも面白そうにマウロの顔を覗き込んだ。
「こりゃ、だめだな。リアのところに帰した方がいいんじゃないか。昏倒しそうだ」
 ノアムも異論はなかった。残りの汁物を片づけて立ち上がった。
「ギリス」
「うん? ああ、ここは片づけておいてやる」
「そうじゃなくて」
 完全に眠り込んだ子供を抱いて肩にもたせかけながら、ノアムは言葉を探した。
「ありがとうな。みんな同じ気持ちだろうよ」
 そう言って、広間をあとにした。見れば、スレイもようやく気持ちの落としどころを見つけたらしく、無言で汁物をかきこんでいた。
 残されたギリスは、黙って空の椀をもてあそんでいた。鎧戸をゆさぶる風には叩くような固い音が混じっている。氷まじりの雪だ。風は今晩中続いて、また皆の眠りを妨げるのだろう。
「踏ん張る、といっても片足だ」
 自嘲ぎみに呟いて、左の掌を見た。自分にできることは限られている。そして、厳しい冷え込みがまだまだ続くことは想像がついた。
「この冬はどれだけもぎ取れば満足するのだろうな」
 身震いしながら、ギリスは立ち上がった。

 その日、セディムは身の回りのものを持って、私室から長の間へ移った。どうせ寝る時しか戻らないなら、炉を熾すのももったいないと思ったからだ。
 身の回りといっても、寝る時にくるまっている毛皮と服、そして弓矢と鞍だけだ。肩に担いで廊下を一度歩いただけで引っ越しは終わってしまった。これでも多いくらいだと思う。
 昔、父からもらった石も毛皮も、綴れ織りの壁掛けも置いてきた。
 何もいらないのだ――ただひとつの望みの他は。






 

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