真冬の光 第四部 真冬の光 | 3章-5 |
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第四部 真冬の光 |
三章 希求 - 6 |
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セディムは自分の膝に拳を叩きつけ、固く目を瞑った。 (違う、まだ帰っていない) 幻だ。ノアムたちはまだこの嵐の何処かにいるのだ。だが、それを嘆くべきか喜ぶべきか、わからなかった。 男たちはこれでふた晩、雪の中に閉じ込められている。いつか浮かんだ風景が、再びまなうらに閃く――血で黒ずんだ手に握られた山鳥だ。ハールはノアムたちに何かを与えたろうか? 生きて村へ返すと計らわれただろうか? その時、扉が開いた。またも幻影かと思わず身構えた彼の前に立ったのは、ラシードだった。 「また、風が強まってきました」 薬師は手をこすって温めながら入ってきた。 「いったい、どこまで冷え込むのか。夜月でもあるまいに」 その姿をセディムはまじまじと見つめた。 本物だ、夢ではない――ほっとした途端、その悠長な様子に苛立ちがわいた。 「下の部屋を見てくる」 セディムはぶっきらぼうに言うと、こわばった足でよろけながら立ちあがった。その仕草を見てラシードは眉をひそめた。 「心配することはない。かがり火には城臣と村人が張りついております」 「もう二晩もこんな状態だ。みな疲れているだろう。うっかり火を絶やさないとも限らない」 「長、かがり火は……」 「火が消えたら、レンディアはおしまいだ!」 その語気にラシードは息をのんだ。 「もしノアムたちが無事に戻らなければ、牛をつぶすか種芋に手をつけるしかない。今年の命を削るということだ。それがわからないのか?」 「長、こちらを見なさい!」 ラシードは強く言い、セディムの両肩をつかんで揺さぶった。 「かがり火を焚き始めたのは夕べのこと。ほんの一刻前に見回りに行かれたばかりではないか」 「――みまわり?」 自分が、と問おうとしてセディムは言葉を失った――何も思い出せなかった。 力抜けたようにセディムは窓辺に腰を下ろした。その時になって、ようやく城臣に火の指図をしたことを思い出した。 「……休まない、食べていないから、幻など見るのです」 薬師の言葉にセディムはのろのろと顔を上げた。 「休むなど――」 苦く笑んだその声は聞き取れないほど低かった。 「そんなことできるわけない。ノアムたちが休まず、食べてもいないのに?」 続く言葉を探していたセディムの表情がふいに崩れた。窓の外を指差して叫んだ。 「私が行けと言った。皆を――自分の代わりに行かせたのだ! 本当なら、あそこにいるのは私だったんだ」 窓の外で激しく風が叫んだ。ラシードは唇を強く引き結び、セディムの顔をのぞき込んだ。 「――それでも、長は倒れてはいけない」 「何のためだ」 「長とは、冬の炉だからです。厳しい冬の拠り所だ。長がいなくては、村はやっていけない」 だが、セディムはうすく嗤った。 「それなら、炉ほどの力もないのは何故だ? 大昔の長たちならともかく――」 と、両の手を開いてみせる。「この手では何もできはしない」 「それでも、だ。生きのびろ」 村のために――そう言いかけたラシードの胸ぐらをセディムは掴んで揺さぶった。 「そうして、どうなると言うんだ?! いずれ雪がとけて、獣たちは仔を生むだろう。だが、牛をつぶしてしまえば、もう狩に出る術がない。根菜も豆も草も食べ尽くした。今、種麦を食べれば空腹は癒される。だが、春には何を植えればいい?」 「長」 「夏は短く、秋にはまた僅かの収穫しかないだろう。だが、もう毛皮はない。売るものはない。ハールに捧げられるものも。できることなど、もう無いんだ!」 握りしめた拳をセディムは額に押し当てた。 座り込み、頭を抱え込んでしまった長のまえに、ラシードは片膝をついた。風の音がふいに遠くなった。 静けさの中、城のどこかから祈りの声が聞こえる。細く、だが途切れることのない声に促されるように、ラシードは長の顔をのぞきこんで小さく声をかけた。 「あなたは、よくやった」 セディムはびくりと身をかたくした。 「人の手には限りがある。どうにもならんことがあるのです」 「薬師と同じように、か?」 セディムは俯いたまま尋ねた。ラシードはただ頷いた。薬湯を飲ませようが傷を洗おうが、人は死ぬときには死んでしまう。 「越えられない一線、ここから先はお前の領分ではないとハールが言われる時がある。それは、手を尽くせば尽くすほど、はっきりと示されるものだ」 「……」 「長として、あなたは村に仕えた。ケルシュやその父、その父たちと同じように」 そう言って、ラシードはセディムの肩を両手で包んだ。 「命運を決めるのはハールだ。時がきたら、ただ頭を下げてそれを受け入れるしかないのです」 ふいに窓が鳴り、激しい風が吹いた。 「……あきらめろ、というのか?」 かすれた声でセディムはつぶやいた。 「追われて逃げ道を失っていく雪鳩のように?」 「いたしかたありません。ハールが示されたことであれば」 セディムはゆっくりと顔を上げ、ラシードの目を見返した。 見覚えのある表情だった。ラシードだけではない。村の誰もが同じ静かな目で長を見上げる。そして、ユルクやミーチェのように、ハールの庭への招きを受け入れるのだ。だが――。 「……いやだ」 ながい、ながい沈黙の後、風にかき消されそうな小さな声がこぼれた。 セディムは拳を握りしめ、真っ暗な部屋の隅を睨めつけた。 「できることなど尽きた。それはわかっている。でも……」 「長?」 「ハールは――答えるべきだ」 セディムはまっすぐに階段を指差し、血を吐くように叫んだ。 「あれを聞いてみろ! 皆が集まって、わずかな望みに縋っているんだ。長などどうでもいい。だが――。 村の皆に、あの祈りに、ハールは答えるべきではないのか!!」 もはや長など何の役にも立たない。それでも村人は祈るのをやめない。どれだけ困難な状況でも、天の父を恨みもせず、ただ耐えて、待って、望んでいる――その彼らにハールは応えるべきではないのか。 セディムは怒りに満ちた目で窓の外をにらんだ。真っ白にけぶる雪風の中に何か浮かびはしないか、聞こえはしないかと。 しるしが欲しい。しるしが欲しい。しるしが欲しい。 息もつけず、胸が痛むほどにそう願った。迷いがあるからではない――レンディアがハールの手の中にあるために。 「皆が……無事に春を迎えられるというなら、何でもするから」 セディムは握り拳を口を押し当てた。 「――」 「長?」 「――助けてくれ」 ラシードは長の足元に跪き、その頭を支えるように肩を押し当てた。その耳元に呻くような声が響いた。 「……ノアムたちを帰してくれ。ここに帰してくれ」 ――頼むから。何でもするから。 その言葉はもはや声にならなかった。 知らぬ間に頬を伝い落ちる涙にも、自分が助けを求めて祈り呟いていることにもセディムは気づいていなかった。 風の音が渦巻く中、二人は一つ岩のように身を寄せていた。 ――それは嵐が過ぎ行くのを待っている山の獣のようだった。 どのくらい経っただろうか。 ラシードはうすく目を開けた。耳鳴りがして、何か奇妙な感じを覚えた。 しばらくの間その理由を探していたが、やがて気づいた――辺りは白く、明るかった。 顔を上げると、石の床を染める淡い光が見えた。凍りついた窓越しに部屋を照らしていたのは、雲間から射す陽光だった。 ラシードは目を瞠った。耳鳴りと思ったのは、静寂だった。風もいつしか止んでいた。 「――ばかな」 思わずつぶやいた。 「あの分厚い雲が払われるなど……」 ありえない、という言葉はかすれて声にならなかった。 そのラシードの肩に、セディムが力尽きたようにもたれていた。頭を抱え込み、しかしその腕は力なかった。 「……長?」 息は深く、どうやら眠っているとわかってラシードはほっとした。 その肩を軽く揺すってみるが、若長は目を覚ましもしない。ラシードはその姿を息をひそめて見つめた。烈風のさなか、耳にした祈りの声が耳によみがえる――。 そのとたん、何が起きたのかに気づいた。 「――ハールよ、この光に感謝する」 思わず、祈りの言葉が自分の口から漏れたことにラシードは愕いた。 その時、誰かが足音たかく塔を駆け上がってきた。 「長! セディム様! 外を……嵐がやんでいます!」 息を切らして駆けあがってきたテルクは、倒れ崩れているセディムを目にして息をのんだ。 「静かに」 ラシードはそっと答えて、長の横顔を見下ろした。 「大事ない。眠っておられるだけだ」 「眠って……?」 ラシードはうなづき、涙滲む目を拭った。 「手を貸してくれ。このまま、下へお連れしよう」 ラシードが長の腕を肩に回して背負い、その足元をテルクが手燭で照らした。 石の回廊を通るとき、彼らは思わず足を止めた。遠い山並みが青空にくっきりと際立っている。風が洗いあげた空気はしんと澄みきっていた。 「……こんなことって、あるんだろうか?」 テルクは空を見上げて茫然とつぶやいた。 つい先程まで雪風が渦巻いていたとは信じられない。陽の光は高らかに空に響きながら山を朱に染めていた。 「――ケルシュよ」 ラシードはずり落ちそうになるセディムを背負い直しながら、思わず呟いた。 「喜べ。お前の息子は、まごうことなきレンディアの長だぞ」 |