Novel
春を待つ城 4

 身を包む暖かさに、待ち詫びた季節がきたのだ、とセディムは思った。
 その後で、自分が雪窪に落ちたことを思い出した。では、甘い匂いまでするのはどうしたことだろう。
 遠くに離れているかのような意識を苦労して手繰り寄せると、セディムは薄く目を開けた。雪だと思っていたのは白い毛皮だった。どこかで薪のはぜる音までする。
 起き上がろうとして肩に走った痛みに思わず顔をしかめた。痛みに喘いだとたん、口の中がからからなのに気づく。すると、その思いを察したかのように、どこからともなく杯が現れて口に押し当てられた。
 受け取ろうとしたとたん、セディムの朦朧とした頭のどこかで警鐘がなった。夢中で顔をそむけ、見知らぬ者から身を守ろうとすると、穏やかな声がした。
「セディム殿、飲みなさい。何も盛ったりはしない」
 言葉は丁寧だが、命令としか思えない口調だ。
 ふたたび口にあてがわれた杯から、否応なく薬湯が注ぎ込まれる。セディムはむせそうになりながら、素直にそれを飲みほした。
「自分の命は誰にも任せない。山の民らしい心がけだ。久々に故郷へ帰った実感が湧きますな」
 声の主に杯を返そうとして、セディムは思わず手を止めた。
「ラシード?」
 粗末な泥煉瓦の壁、薄暗い室内。ここは狩人が使う山の狩小屋だ。秋以来、ひと気はなかったが、炉には小さな火が熾きており、鍋をかき回していた男がセディムを振り返った。
 がっしりした体躯は分厚い服の上からでも無駄のない筋肉のせいだとわかる。上背があり、山の民にしては長身のセディムと肩を並べられるだろう。
「お久しぶりですな」
 男は笑って杯を受け取ると雪ですすいだ。「薬臭さが移っちまうのでね。酒の味が変わってしまう」
「いったいいつ戻ったのだ」
 肩を押さえながら、セディムはようやく身を起こした。
「何故城に顔を出さなかった?ヤペルが知ったら文句があふれ出るぞ」
「ここに着いたのは二日ほど前です。ゆっくり旅の疲れをほぐしてから城へ伺おうと思いましてね。何せ、あすこは肩が凝る」
 ラシードは何やら強い匂いの薬草を鍋に放り込んだ。
「牛には感謝するんですな。あなたのところまで案内してくれた。傷は大したことはないが、あのまま放っておけば寒さで腕か足を無くしたところですぞ」
「雪窪に落ちるなど、昔話のまぬけな山リス並みだな」
 ラシ−ドはまったく、その通り、などと言って、豪快に笑いながら鍋をかきまわした。
 セディムはその後ろ姿を見ながらため息をついた。
 いくぶん髪に白いものが増えただろうか? しかし油断ない身のこなしや落ち着いた声に変わりはない。明るい灰色の目のせいで若々しく見える。あの年、平原を指して旅に出た姿のままだ。この男を見送ってから何年たったろうか。
 ラシードはセディムを寝返り打たせて肩の傷を調べた。
「さすが山リス並みに鍛えておられる。じきに治りましょう」
「大した皮肉だな」
「中にかけらでも残るとやっかいですからな。念のために切っておいた方がいい」
 皮肉に抗うひまもなく、ラシードは煮込んでいた刃物を傷にあてた。
 セディムは身のうちに突き上げるような痛みに耐えようと歯を食いしばったが、うめき声はとめられない。
「あいかわらず大雑把な治療だ」
 セディムは腹立ちまぎれに悪態をついた。
「平原で少しは腕を上げたかと思ったが」
「町では薬師はあふれておりますからな。最近ではもっぱら牛ばかり相手にしておりましたよ」
 セディムはがっくりと頭を横たえて息をはずませた。
「腕だけでなく口も変わらんな」
 ラシードは傷を縛り直すと、寝台の端に腰掛けてセディムの顔を見た。
「あなたはずいぶん変わられたな。最後にお会いした時は、泣きそうな顔の若造でいらしたが」
 その言葉にセディムはふいを突かれた。前にもそう言われたことがあった。
「大して変わったとは思えないが」
「いや、あなただけではない。畑やこの小屋や、何やら苦労のあとが見受けられる」
 それを聞くとセディムは軽く笑って見せた。
「ここはいつも変わることがない。平原とは違う」
 自分の声にどこか苛立ちが漂うのを感じて、セディムは内心おかしかった。まったく、自分は変わり映えのしない男だ、と思ったのだ。
 ラシードはそんなセディムの様子を不思議そうに眺めた。それから、思いだしたように荷物を探り、古びた袋をようやく探しあてた。
「ほんの手土産です。長い事、留守にした詫びになればと思いましてね」
 手渡された袋を覗きこんだセディムは息をのんだ。
「何故、わかったのだ? 私がずっと考えていたことを」
 薄汚れて古びた袋からこぼれたのは金色のヒラ麦の穂だった。丸く重みのある実は殻に包まれていた。
「あの冬、あなたが仰っていたのを覚えていたのでね。確かレンディアのために……」
 その続きは、口にされる前にセディムの脳裏に甦っていた。確かにあの時思ったのだ。
 ――レンディアのために何を懸けてもいいと。

Novel
inserted by FC2 system